旅日記

若き日の旅の思い出

那須に住む番外編

ヨーロッパ

あとがき

      エジプトの長期出張の折に「対岸」のヨーロッパへ行ってみようと漠然と考えていた。砂漠の国エジプトに行くのに、ヨ―ロッパ旅行を想定して折畳傘を携行するという用意周到さがあった反面、旅行案内書などは持っていかなかった。休みを利用するとはいえ、掘削作業の途中に戦列を離れるなんて、と躊躇する気持ちもあったが、作業に見通しのついた頃合を見計らって、旅行に出発した。旅行案内書が手に入らないので、日本から航空便で到着する日本の新聞のトラベル・ツア―の広告切抜きを集めた。

  初めはスペイン・ポルトガルに行こう思っていたが、実際にはエジプトから遠いので、「近所の」アテネ・ロ―マの周遊チケットを購入した。往きのアテネ便以外スケジュ―ルがはっきりしなかったので、後は適時会社のカイロ事務所あて連絡を入れる約束で出発した。自力でどこまでやれるか、休暇旅行を楽しむというより、そちらの方が旅行の大きな目的であったことは否めない。無事に帰投することが第一目的であったが、その範囲内では無駄な出費を押えることを第二の目的にあげた。筆者自身で読み返してみて、行間に堅さがあるのはあながち稚拙な文章のせいばかりではない。目標を設定し、目的の為に手段を選ぶ。後は目的の完遂を期す。一連の行動はその体験記である。反面、単独行動であったために自由な気持ちで、小田実の「何でも見てやろう。」的な発想もできた。約一年半を経過した今も不思議と記憶が鮮明なのは、当時の印象が強かったせいだと思う。

 文化ついては、鑑賞する心の余裕がなかったためか、馴染めなかった。古代エジプトの美術をカイロの博物館で何度か見た。数千年も昔、日本では土器文化全盛のころ、すでに彩色文化と象形文字文化が存在し、その歴史を文字によって現在まで伝える。ミロのヴィ―ナスで代表されるギリシャの洗練された美術。コロッセオ(円形劇場)に代表される男らしいロ―マ文化の遺構。ヴェネチアを始めとして各地で見たヨ―ロッパ中世の石造建築物。そのいずれも日本では見られない豪壮な文化である。しかし筆者は基本的に、日本の寺院の庭園文化に見られる精緻ないわゆる「縮みの」の文化が性にあうのではないのだろうか。

 6月という一年で最も気候の良い時期にイタリア、スイス、ドイツ、オ―ストリアを通過した。自然に恵まれ、「ウサギ小屋」でない家に住む。鉄道・道路などの社会的基盤が整備され、最近の言葉を用いれば社会ストックが充実している。そんな世界を体験したが、鉄道とて国の助成なしには成立しない。ヨ―ロッパの牧畜業とて生産過剰で、一部にはチ―ズなどの乳製品を家畜に飼料がわりに与える、という記事を帰国後新聞で読んだ。一見のどかに見える農作業の下に隠された現実に触れた思いがした。 子供たちがウロウロして、警備に不安を感じたアテネ空港を舞台に、一週間後TWA爆破事件が起き、置き忘れたパスポ―トを持って追いかけてきた親切なロ―マ空港の武装兵士たちが銃撃戦を起こしたというニュ―スを後で知ってヨ―ロッパの不穏な政情に思いを馳せた。

 海外における日本人のしたたかさには舌を巻く。偶々そのような人々に会ったという事もあったが、ユ―ゴの地方都市のホテルで働くHさん。ヨ―ロッパをまたにかけハリガネ一本で生活するNさん。彼等との邂逅は忘れられない。

 旅行の初日、カラオケのマイクさえほとんど握った事のない筆者が、スポット・ライトを浴びてステ―ジに立ち、フリまでいれて歌を歌う。自分自身でさえいまだに信じられないことも「ハプニング」として起こった。30歳も半ばにしてこのような体験の機会に恵まれた我が身の幸運に感謝したい。

  1987年1月

14.エジプトへの帰途

 彼女と別れて先ず、生卵を求めて肉屋を捜す。カイロの街でも卵は手に入るが、肝炎ビ―ルスが怖くて、熱い御飯に生卵と醤油というわけにはいかない。カイロの日本人学校の中学生の修学旅行は、アテネから土産がわりに生鮮食料品の買出し、という笑えない話を聞いている。日頃お世話になっている同僚の家族の分も含めて、がっぽり買込んだ。

 テルミニのバス・タ―ミナルからレオナルド・ダ・ビンチ空港へ。チェック・インを済ませて免税品を買い、残ったイタリア紙幣を銀行の出張所でドルに換える。バンク・レシ―トやパス・ポ―トの提示を求められてなかなか面倒だ。と思っているうちに、薄地のバックから汁が垂れだした。こりゃ大変と、慌ててそのまま荷物を近くのソファ―に移動して、割れた卵を片付ける。一安心と荷物を改めると、大切なパスポ―トが見当たらない。また慌てて、先程の銀行の窓口に戻ろうとする途中、小銃を持った完全武装の兵士が数人、
 「パスポ―ト、パスポ―ト。」
  と叫んで寄って来る。こちらは赤軍派に間違えられて、パスポートの提示を求められたのかと早合点して、
 「急いでいるから。」
    と避けようとする。しかし尚も寄って来る
  その兵士の手には「赤い表紙」の僕の「置き忘れた」パスポ―トが掴まれていた。

 アテネ行きのオリンピック・エアのエア・バスは満員であった。搭乗客の最後から10数名の日本人グル―プが乗込んできた。新婚カップルとおぼしき面々が、手に手にルイ・ヴィトンなどのブランドものを抱えている。パリあたりで買込んできたと想像される。彼等にとって気の毒なことに、空席は散らばっており新婚夫婦といえども隣合せに座ることができない。通路を隔てて僕の隣も最初は空いていたが、グル―プの女性が座った。隣が白人で落着かなさそうである。後ろを向いて心細そうに自分のベタ―・ハ―フを捜す。手で合図しあうところをみると、彼女のご主人は随分後ろにいる。しばらくしてギリシャの入国カ―ドが配られた。僕はカイロへのトランジットだからいらない。何気なく覚つかない彼女の手元を見ていると、「ジャパン・フクオカ・タガワ」の文字が読取れた。記入に難儀している様子なので、
 「田川から来たんですか。」
   と声を掛けた。
 「僕も仕事で何度か行ったことがありますよ。」
と付加えた。田川は筑豊の炭鉱町で、今でも会社の事業所がいくつかあるのだ。それをきっかけに、話が弾む。
 「この旅行一人60万円もするんですよ、主人が決めたもんだから、仕方なく来たけど。お陰でスッカラカン。」
   などと聞いてもいないことも話す。
 それでも北欧からパリ、ロ―マ、ギリシャと豪勢な旅で羨ましい限りである。

 アテネの空港では出口に出ずに、直接出発待合室に向かって席をおろした。驚いたことに搭乗待合客に混じって、草履に貧しい身なりの子供達が数人、中をウロウロしている。掃除人でもないようだし、ジェット機の発着に喚声をあげているところを見ると客とも思えない。ここまでどうやって入って来たのだろうと不思議に思った。

 いよいよ搭乗である。比較的前方の席に座っていると、後から後から客が乗込んでくる。ほとんどがエジプト人であり、例外もない位に大きな荷物を手に一杯持っている。機内荷物の制限など有って無きが如しである。甚だしいのは座席三人分をふさぐような大荷物を持ちこんで、入口近くの席に無造作に置いて後方の自分の席に座った客である。これはさすがにスチュワ―デスに注意されて、しばらく口論したが渋々自分の席に引取っていった。これからしばらく又この種の”図々しい”人間と付き合うのかと、気が重くなった。

 飛行機はカイロ上空について旋回を始めた。眼下には黄色の光の海が広がる。全体に暗い。所々で光の列が点滅する。エジプトの電力事情の悪さが一目で見て取れる。その中を飛行機は機首を下げて、滑走路に向かって降下していく。

13.もう一つの「ロ―マの休日」物語

    水上バスに乗って、先程遊覧船で巡った大運河をもう一度走る。公共の足が水上輸送に限られているせいであろうが、客が多くて船内は混んでいる。バス停ならぬ船着場が頻繁にあって、客の乗降も激しい。それ程小さい船ではないが、乗降のたび、客の移動で船が傾く。

     十分ほどして鉄道のサンタルチア駅前の船着場に着いた。大きな石段を昇ったところにホ―ルがある。最近時々話題になる島の浸水騒ぎに備えて、予め海面よりも随分と高い所に造られているのだろう。比較的近代的な駅の構内で、客が少なくて閑散としているせいか、小奇麗である。 窓口でロ―マまでの切符を買った後、隣のキオスクで缶ビ―ルと雑誌を買込んで、高いタラップを踏んで列車に乗込んだ。出発までにまだ間があるせいもあろうが、客はほとんど乗っていない。これなら、日本の国鉄に劣らず鉄道の採算性は悪いだろうと一寸同情した。缶ビ―ルのふたをあけて、雑誌のページをめくっているうちに、出発となった。同室者はおろか、この車両にもほとんど客がいないのではなかろうか。列車はしばらく島と本土をつなぐ狭い土手の上を走る。車窓の景色は両側ともに海である。

     そのうち廊下の通路を一人の若い女の子が通り過ぎたと思う間も無く、逆に戻ってきて、僕のコンパ―トメントの前を通って、隣に入った。背格好からして日本人だなと思っているうちに、廊下に出てきたので、僕もドアから出て声を掛けた。行先を尋ねたら同じロ―マだと云うので、同じコンパ―トメントに誘った。 彼女はパリに住む友人を訪ねて北回りでやってきたとのこと、ユ―ロ・レイルのフリ―パスを持ってきたので、身の回りの物だけを持って、ヴェネチア、ロ―マの観光に出てきたという。学生時代最後のチャンスを利用してきたのだという。話を聞いていて一番驚いたことに、この列車の終着ロ―マ到着は夜遅いというのに、ホテルの予約はおろか心当りも一切ないというのである。悪戯心が起きて、ここぞとばかりに、この大の男がロ―マでどんな怖い目にあったか、一部始終を聞かせておどかした。一向に動じないことに更にびっくりした。僕自身は先日泊まったホテルを予約して、前払いがしてある。場所も駅の隣だし、いよいよなら交渉してやろうということにして、テルミニに降りた。

     ローマの鉄道駅の構内は昼間に比べると人通りが少なくなっている。彼女に 「あそこにホテルの案内板があるから一人で行ってごらん。」と勧めた。遠く離れて見ていると、 案内板に向かって歩く彼女の背後から男たちが寄っていく。と思う間もなく走って戻ってきた。 「しつこくて、しつこくて。参ったぁ。」 と開口一番彼女が報告する。心ではザマ―ミロとほくそ笑んで、彼女と連れ立ってホテルのフロントに向かった。幸いにして空室があった。
   
     荷物を置いて、フロントで教えて貰った深夜営業のレストランで腹ごしらえしての帰り道、面白い光景を目にした。夜目にも厚化粧のストリ―ト・ガ―ルが四、五人歩道に立っている。その前の車道に男たちを乗せた車が列をなす。車の列は前から一台ずつ順に彼女たちの前に止まって「交渉」する。商談はなかなかまとまらないようであったが、その様は日本の夜の盛り場のタクシ―乗り場を連想させて楽しかった。
 
    僕も翌日は飛行機を乗り継いでエジプトに帰るだけである。午前中はお土産を買うだけだから、名所をいくつか案内しようと約束して部屋に戻ったのは夜も遅かった。 次の朝、オ―ドリ―・ヘップバ―ンとグレゴリ―・ペック主演の「ロ―マの休日」にあやかって、「王女様」をスペイン広場に案内しようか、トレビノの泉にも連れて行こうと作戦を立てる。寝坊した彼女が、下のロビ―に降りてきたのは遅かったので、急いで外に出る。地下鉄に乗ってダウン・タウンに降り、街を歩き回る。スペイン広場位までは順調にいったが、後は先日一人で歩いた時と同様、曲がった道に惑わされてなかなか目的地に行き着かない。同行の彼女にいい所を見せようと気ばかり焦るが結局遠回りしている。 「あら、ここさっき通ったんじゃない。」 などと指摘されてバツの悪いこと。

トレビノの泉で

それでも一通り観光してブランチということになった。その間も 「あっ! キミジマ イチロウの店がロ―マにもある。」 とさすが当世のDCブランドで育っ た女の子である。食事を終えて店を出るときも、 すかさず店主に 「グラッチェ」 のひとこと。 「イタリア語をしゃべれるの?」 と尋ねたら、 「これだけよ」 という。全くいい度胸である。

12. 水の都ヴェネチアへ

 翌朝早くホテルのチェック・アウトを済ませ、向かいの桟橋から水中翼船に乗った。当初このユ―ゴからイタリアにはフェリ―で渡る計画であったが、この港からは出ていない。かわりにヴェネチアまでの日帰りツア―が、あちこちの旅行社で企画されている。船で対岸のヴェネチアまで渡り、ぐるっと観光してその日のうちにポルト・ロ―シェまで戻る。在来船型の遊覧船の場合片道四時間半、水中翼船だと三時間強の船旅である。料金は割高の水中翼船でも八千円余り。僕の場合はヴェネチアで乗捨てるつもりであったが、これまで乗ったことのない水中翼船の方を選んだ。先着順に席に着き、予約者で満席になったのを確認して七時過ぎ予定通り出港となった。港内を低速で走る時は、一般の船と変わらない。

アドリア海を渡るジェットフォイル(水中翼船)


 港の外でスピ―ドを上げた途端、船首が水から浮いて滑走する。揺れもせず、乗り心地は快適である。乗客が船に馴染んだころ、添乗員の案内が始まった。先ず言葉の選択をさせられた。理解する言語はドイツ語、英語か、それぞれどちらか手を挙げろという。見ているとドイツ語が七割、英語が三割といったところだろうか。多数の順にドイツ語から説明が始まる。同じことが英語でも繰返される。向こうの港に下りる時パスポ―トの提示を求められるから準備しておくようにとか、同型船が三隻並んで横付けになるから帰りに間違えないようにとかの注意があった。そこで、ヴェネチア運河遊覧のオプション旅行を募集したので僕も切符を買った。

 缶ビ―ルを飲んだり、狭い船内をあちこち見学しているうちに船は大きな防波堤の間をすりぬけヴェネチアの港に着いた。説明されていた通りに入国管理官の出迎えを受けて上陸すると、そこは生憎と小雨が降っていた。
 
 ドイツ語グル―プと英語グル―プに別れてそれぞれ観光ガイドが付いて、サン・マルコ広場から見学が始まった。ガイドの英語はとても聞き取り易いが、残念ながらその内容が興味をそそらない。十五世紀の何の誰それが作った彫刻だとか、何年に誰が寄進した壁画だとか、聞いていて全く頭に入らない。傘をさしながら、鳩の舞う広場を一通り見て昼食となった。この後は原則として自由行動であるが、希望者は提携先のレストランに案内するという。僕はためらうことなく、二十名ほどの同行者と一緒に狭い路地を通って古めかしいレストランに向かった。レストランではツ―リスト・メニュ―の中から久し振りにパスタ料理を選んで、白ワインで乾杯した。
 ここまで来ると日本人観光客の姿も多い。同じレストランの中にも若い女性を中心としたグル―プが何組か食事をしていた。こちらはまるで同邦人に見離された捕虜の如く、異国人に囲まれて、オプショナル・ツア―の集合先、サン・マルコ広場の一角をめざした。

 遊覧船に乗って大運河を行く、石造りの家と家の間の狭い運河では有名なゴンドラが黒くて優雅な姿を水面に浮べている。ヴェニス(ヴェネチア)に実際に来るまでにも、サンタルチアの歌とゴンドラと運河は知っていたが、不勉強なことに運河も水郷の堀割くらいにしか考えていなかった。まさかヴェネチアがアドリア海のラグ―ンの上に造られた水上都市とは思ってもみなかった。運河にかかる橋々をくぐって外海に出た。先に見える島が有名なヴェネチア映画祭の開かれるリド島であるとか、中世の商業都市ヴェネチアにはここに工業地域があったとか観光ガイドが説明する。小さな観光船で一時間半余り、海からの見学が終わってサン・マルコ広場脇の船着場に戻った。

ベネチアのゴンドラ(嘆きの回廊)


  ここで他の皆とは別れを告げ、ロ―マに行くために、ヴェネチア鉄道駅に向かう。添乗員から親切な道案内を受けてバス・ストップへ行く。バスというからにはバスだとタイヤの着いた乗物を想像していったら、それは水上バスだった。水の都ヴェネチアに自動車は一台もない。

11. ユ―ゴで会った二人の日本人(2)

 翌朝ゆっくり寝ていたつもりだが、まだ下のダイニングでは朝食をサ―ビスしている時間である。コンチネンタル・スタイルだろうとたかをくって下りていったら、これが違う。セルフ・サ―ビス方式になっていたが、フル―ツ、パンの類、ハム・ベ―コン・ソ―セ―ジ、卵料理、ジュ―ス、牛乳そしてコ―ヒ―・紅茶などがテ―ブルに一杯並んでいて、圧倒されてしまった。先客は白髪の老人たちが僅かであった。その中に混じって朝から豪華な食事をとった。
 
 陽が少し高くなった頃、ホテルで海パンにはきかえ、上にTシャツ、短パンを身に付けて、スニ―カ―をはいて近くのビ―チに出掛けて行った。
 この周辺に砂浜が1km近く広がっているが、実は防潮堤に囲まれた中に造られた人工海浜である。この辺では岩場が普通である。従ってプライベ―ト・ビ―チで海水浴するには入場料がいる。但しホテルの宿泊客にはフリ―パスを発行してくれる。

 道路沿いにはレストラン、土産物店などが並んで、砂浜との間を境している。建物と建物の間は鉄柵が張りめぐらされてある。砂浜には所々に設置された入場口から入る。中にはトイレ、シャワ―、ロッカ―等が十分に設備されている他に、道路沿いに並ぶレストランも海辺側に席を設けている。ビーチ・パラソル、マットなども貸し出しているようである。時間が早いせいか、客もあまり多くない。ぐるっと見渡してみて、もとはヨットやボ―トのために作られた桟橋が甲羅干しの一等地と見極める。
 木の板が並べられた桟橋の上は平坦で、マットを敷く必要もないし、海にも直接飛び込める。 海パン姿になり、脱いだスニ―カ―、シャツなどを脇に並べて、板の上にゆっくり横になった。今日・明日の2日間はヨ―ロッパ人並に「バカンス」を体験するのだと言いきかせて…。
 うつ伏せになって周囲を見渡せば、みんなのんびりとしている。目にサングラスだけで日光浴しているのが一般的な姿。本を開いて読んでいるのもチラホラ見受けられるが、じっと集中している風でもなさそう、ひとしきり読んでいると、その後は本を脇に置いて目を閉じてしまう。対称的に活発なのがロ―ティン以下の子供達、砂浜を走り回り、桟橋の上を跳んで歩いて、海に飛び込む、潜ってはじゃれあって、競って浜辺に向かって泳ぎだす。

ポルト・ローシェのビーチ

 ここで特筆すべきは海水浴のファッションである。男性の全員が上半身裸はいうまでもないが、女性の二割ほどもそうだろうか。つまりトップ・レスである。そこに老若の区別はない。中学生位の子供から、うら若き女性、赤ん坊を抱いたヤング・ミセス、それからずうっと年が上がってしわだらけのおばあちゃんまで、みんな堂々と自然の恵み、太陽の光を体に受けている。始めは目のやり場に困らないこともなかった。特に一点に向かって凝視するわけにもいかない。ここはぐっと空気に対するが如く自然流にいくことにした。
 隣に二人連れの女性が横たわっていた。その時点で若い方は上にTシャツをはおっていた。岸の方から桟橋を親父が一人歩いて来た。肩には古臭いカメラが下がっている。型押しされた茶色の皮ケ―スから旧式のカメラを取出すと同時に、その家族と思われる隣の二人は起き上がった。驚いたことに写真のモデルはわざわざTシャツを脱いで、カメラの前にポ―ズをとった。僕も何度か旅の記念を「最新型の」カメラに納めようかと思ったが、臆病が邪魔して最後までカメラを構えることが出来なかった。

 海に飛び込んで見たが水は汚い。波もない人工海浜では水の自浄作用もないのだろう。桟橋から隣の桟橋へと少し泳いでみたが、濁った海水はあまり気持ちの良いものでなかったので、早々に水から上がった。ヨ―ロッパのビ―チ・リゾ―トは、元来海水浴場でなく、日光浴場なのかもしれない。
 それにしても暇である。特にこれまで「せっかち旅行」を続けてきた僕にとって、走ってきて、急ブレ―キをかけたようなものである。手もちぶさた、時間を持て余すといって少しまどろんでもみても、目を開ければ太陽は依然として高い。

 1、2度海に飛込んで、その合間甲羅を干して、途中カフェテリアでビ―ルとつまみだけの軽い昼食をとって「時間をつぶした」が飽きてしまって一旦ホテルに戻った。

 シャワ―を浴びて身づくろいして、街に出た。海岸通りは夜に比べると閑散としている。皆が皆海辺に出ていると思われないが、人通りよりは車の往来が多いくらいである。行き来する車を観察していると、ユ―ゴスラビアの車は白いナンバ―・プレ―トの端に赤い星がついていて、いかにも共産圏の国らしい。その他の車を見ていると、ナンバ―・プレ―トは変わりばえしないが、その脇に国籍識別の白いステッカ―が貼ってある。例えばドイツの頭文字の[D]、フランスの[F]。国境を接して道路網が発達しているヨ―ロッパらしくて、面白かった。
 僕もユ―ゴスラビアの[YU]のステッカ―を一枚記念に買った。(今も日本の僕の車の尻で輝いている。)

 日が落ちてしばらくして、食事の為に外に出た。既に人が通りに溢れている。幾つかのレストランを物色してある「高級」レストランに入った。昨夜の経験で値段の手頃なのは分っているから、悠々とした気持ちで席に着いた。メニュ―の内容は変わりばえしないので、珍味らしいアピタイザ―、チョットした肉料理とつけあわせとワインをゆっくり楽しんだ。支払いも期待通りの額であった。

 食後の散歩としゃれて、人込みに混じって通りを歩く。あちこちからバンドの音楽が聞こえてくる。同じリゾ―トの生活なら、僕は夜の方が好きだ。祭りの夜店の間を歩くように、何だか胸がわくわくする。
 歩道の脇のあちこちに小さな広場の小公園がある。水銀燈の明りの下には、似顔絵書きなどが出て、白いキャンバスの前には小さな女の子なんかを座らせて、結構商売が繁盛しているようである。その一角で人だかりがしているので、何の店だろうかと人の頭の間から覗いてみたら、青に赤の日本の祭り半纏が見える。良く見れば半纏をきた背の小さな男があぐらをかいて、器用に針金細工をしている。日本でも盛り場でよく見かける針金のブロ―チつくりである。人を掻きわけて前に出て声をかけた。見上げたその顔はまぎれもなく日本人である。 
「こんな所で日本人にあうとは思わなかったなあ。」
   といったら、ニヤッと笑った。一言、二言言葉を交わしたが、彼も忙しくてその後が続かない。そのうち彼が
 「9時半を過ぎると暇になるから一杯飲みましょう。又ここに来てくれませんか。」 
というので、頷いてその場を離れた。
 ホテルに戻って一休みして、約束の時間に、旅行中持ち歩いてきた日本の総合雑誌と飲み残しのジョニ黒の瓶を手に持って出掛けた。
 街の人通りも少なくなっている。針金細工の彼の回りにも客が一組だけである。
 「このお客さんが終わったら店をたたみますから少し待って下さい。」というので、客の注文通り彼が針金を曲げる様をしばらく見ていた。
 客がいなくなって、店を片付けるのは極く簡単。小さな信玄袋一つに収まってしまう。それから二人で連立ってカフェ・レストランに入った。ビ―ルを飲みながら聞いた彼の経歴はなかなか興味深かった。彼は僕と同世代、現在三十代半ば、鹿児島の産だそうである。大学を中退してイスラエルの集団農場(キブツ)にわたる。約十年前針金細工の「技術」を持ってヨ―ロッパに移動。
 「今ならヨ―ロッパのあちこちにハリガネやってる日本人がいるけれど、僕が来たころは他に誰もいなかった。おそらく僕が元祖だと思いますよ。アテネに寄って来たそうですが、ハリガネに会いませんでしたか?あそこには僕の弟子が二人いるはずなのですが。」 
ヨ―ロッパに渡って以来、ずうっと放浪生活。ユ―ゴのこの地には、ここ数年夏の間だけに出稼ぎに来ている。今もこの先の海辺にテントを張って寝泊りしている。 リュ―ブライナのホテルで会った日本人のHさんは去年までここのホテルで働いていた。転勤でリュ―ブライナに移ったんだという話も聞いた。
 「このユ―ゴという国は日本人びいきの国でしてね、私にとっても住みやすいですよ。」
ここにいるときは時々ドイツまで針金の材料を仕入れに行くという。原価60円くらいのものを500円で売っているから生活はかなり楽だという。去年は300円で売っていたが、ユ―ゴの物価が去年から倍になったから、今年は値上げしたのだという。それでもユ―ゴは物価が安いという印象をいうと、ユ―ゴは社会主義国家にもかかわらず、貧富の差が大きい。上はヨット、ベンツを所有しているかと思えば、下は安いビ―ルさえ飲めない。というような話をしてくれた。
 意外にも彼自身は年に二、三度は日本に帰るという。
 「日本の古い着物がヨ―ロッパで結構人気が有りましてね。持ち帰れば飛行機賃くらい浮くんですよ。」
   といって笑った。
 夜も更けた頃、雑誌とウイスキ―のボトルを渡して別れた。
 「今夜は日本の活字が読めるなあ。」
   といってニコニコした顔が闇の中に消えていった。  

11. ユ―ゴで会った二人の日本人(1)

  朝の7時前にリュ―ブライナに着いた。オリエント急行で有名なブダペストへ通じる幹線からこの駅で乗換えて、アドリア海に近い町へ行くつもりである。列車からフォ―ムに降りた。他にほとんど降りる客はいない。もっとも列車にもあまり客がいないのだから無理もない。
向こうのフォ―ムには中学生位の男女が10数名じゃれてはしゃぎ回っている。これから遠足にでもでかけるのだろうか。ここの子供たちは北朝鮮のように、或いは、いにしえのヒットラ―・ユ―ゲントのように制服は着ていない。
駅の中にツ―リスト・オフィスがあった。英語が良く通じる。
「海辺の観光地へ行きたいが。」
と尋ねたが、この町のことしかわからないという。やはり自分で調べなくては駄目かと思いながら、少し両替する。さすが共産圏の国である。同じ国営どうし旅行案内所が旅行者向けの銀行を兼ねる。壁には各国通貨の為替レ―ト一覧表が掛かっている。国名・小さな国旗・レ―トの順に十くらいの国が並んでいる。
中に日の丸が見えた。懐かしいと思うと共に、こんな遠い国まで日本人がそれほどたくさん来るのだろうかと思った。

リューブライナの朝市

  同じ駅の建物の中の小荷物窓口に荷物を預け、街に出た。街と言っても朝早いせいもあろう、人が少ない。そろそろ通勤時間帯にかかろうかという時刻だが、駅前タ―ミナルの歩行者も多くない。幅広いメ―ンストリ―トにも車が少ない。そのかわり街が落着いている。
石畳の道、石造りの建物からなる町並、緑の多い公園、そしてその中に立つ大きな公会堂、どれをとっても落着いている。朝のひんやりとした空気の中のしっとりとした雰囲気がいい。丘の上には緑の樹々に囲まれた小さな中世の城が立っている。川のほとりの広場では朝市の真最中である。
たくさんのビ―チ・パラソルの下に農作物、手工品の数々が山のように積まれ、狭い通路をおばさんたちが買物かご片手にひやかして歩く。サクランボが旬のようである。真赤な、見事な大きさのサクランボが、あちこちの台の上に篭から溢れんばかりに積まれ、目に眩しい。

通りに面した店のショ―・ウインドウを観察しながら歩いた。本屋にはしゃれた装丁の書物、そして絵本がこじんまりと並ぶ。カメラ屋と思える小さな店には、旧式のカメラ、フィルムが棚の上に並んでいる。フィルムの値段を見て驚いた。コダックの35mmフィルム24枚撮りが日本円に換算して二千円近くもする。
どの店も品揃えが少なくて寂しい気がする。特に生活必需品以外のものは数が少なくて、値段も高いようである。このへんが社会主義国の生活なのだろうか。 街の中心部に戻った。映画館もある。アイスクリ―ムなどファ―スト・フ―ドの店もあって賑やかだ。

人通りも心なしか多くなったようである。お腹もすいたなと思ったころ、通りに面したテ―ブルからソ―セ―ジみたいのを油で揚げて売っている店が目についた。その店は隣の軽食カフェ―につながっている、中には大きなカウンタ―があり、その前には脚のながい椅子が一列に並んでいる。メニュ―は共通のようだ。何人かの客がゆっくりと朝食をとっている。
カウンタ―の中では白いシャツに黒い蝶タイの若い男が注文をとっている。なんとなく誘われるように中へ入って椅子の一つに腰を下ろした。若いウェイタ―を相手に、あれこれメニュ―を考えていると、奥から白衣を着た男が顔を出し、
「何を召上がりますか?」
と、日本語でニコニコしながら声を掛けてきた。頭には変形のコック帽がのっている。僕はびっくりしてしまった。まさかここまで来て日本人に会うとは思ってもみなかった。思わず
「アレェ―」
と声を上げてしまった。
「おいしいものがありますよ。」
と、更に目を細めて言うが、料理の注文よりも先に尋ねた。
「こちらにお勤めですか?」
「はい。」
向こうから聞く、
「朝食ですか。」
「ええ、ソ―セ―ジの揚げたのがおいしそうなので。」
「卵料理もおいしいですよ。」
「じゃあ、それと紅茶を下さい。」
彼は脇のウェイタ―にかわってオーダーをすると、
「奥に仕事があるもんですから、又来ますからゆっくりしていって下さい。」
と言って引っ込んだ。後に残された僕のまわりの人たち―カウンタ―の中のウェイタ―もレジの女の子も心なしか親近感をもってきたような気がする。
出来上がった料理とお茶を口に入れながら待っていると、じきに彼が戻ってきた。偶然といおうか、奇遇といおうか、はるばる遠い国まで一人でやってきて、田舎の町で突然、日本人に声を掛けられようとは思ってもみなかった。心は少し興奮しながら、頭は好奇心で一杯である。
ー 「どうして彼はこんな所に住んでいるのだろうか?」と。
それから矢継ぎ早に彼に質問し、色々なことを聞いた。
―彼はユ―ゴに約十年住んでいること。
―数年前ユ―ゴの女性と結婚したこと。
―その間ずうっとコックをしていること。
―リュ―ブライナは人口約三十万の小都会であること。
―リュ―ブライナには日本人が七人住んでいて彼以外全員女性であること。
僕が
「この町は落着いていい町ですね。気に入りました。」
というと。
「いいでしょう。いいでしょう。」
とカウンタ―の向う側から身を乗り出してくる。実際、僕はこの町が好きになっていた。ユ―ゴへ来たことを喜んでいた。
「実はアドリア海に面したリゾ―トに行きたい。できたらイタリアに海を越えて渡れる所がよい。」
と相談すると、
「それならポ―ト・ロ―シェに行きなさい。」
とすすめる。駅前のタ―ミナルから直通バスが出ているという。
話の成行きで僕がエジプトの砂漠で働いている地質屋だと自己紹介すると、彼の妻君の弟もジオロジストだという。義弟が日本の地質学は進んでいると話すので日本に留学させてやりたいという。本当に進んでるのかなと思いながら、満更でもない気がした。その折は連絡下さい、お力になれれば、とアドレスを渡して、礼を言って別れた。

駅で預けた荷物をとって、バスの切符売場に行く。係の老人にはなかなか英語が通じない。後ろに並んでいる大学生らしい若い男が、助けてくれる。バスは座敷指定だという。教えられたタ―ミナルへ行って、待っているバスに乗った。始めは空席も多かったが、次第に埋まり、ついには立つ乗客も出てきた。客のほとんどは軽装で地元の人と想像できる。

  バスは途中、農村の集落に何度か立ち寄り、そして一度は小休憩して、大きな峠を越えて海辺の町に向かった。その所要時間約三時間、そして料金は邦貨に換算して僅かに三百五十円であった。 目的地「ポ―ト・ロ―シェ」は「ポ―ト・オブ・ロ―ズ」つまり「バラの港」である。坂道を海に向かって下りていくと、海岸伝いに延びる道路に沿って、建ち並ぶ立派なホテルの建物が目に入る。
午後も半ばを過ぎているが、砂浜にはビ―チ・パラソルが数多く花開いている。まだ人々が沢山、甲羅干しをしている。華やかな水着の女性に心ときめいたわけではないが、ヨ―ロッパのビ―チ・リゾ―トに来たんだという実感が湧いた。盛り場にあるバス・タ―ミナルで降りて、幾つかのホテルのフロントに直接当たってみたが、いずれも満室であるという。部屋の空いているところあるはずだからと、街の中心地にある観光案内所を紹介された。
全てのホテル・レストランが国営で、その予約は案内所で統轄しているという。早速教えられるままにオフィスに行ったが、あいにくと休憩時間である。午後の三時過ぎに休みかと思ったが、これもヨ―ロッパか、社会主義国かと変に納得して、近所で時間をつぶして出直した。係の若い女性の応対ではSAクラスとAクラスのホテルに空室があるという。SAクラスでもハイ・シ―ズンでないので朝食付で日本円にして一泊八千円までしない。
結局、レストランなどが集中している盛り場に近いAクラスのホテルに決めた。こちらは一泊五千円余りである。予約のカ―ドを貰って筋向かいのホテル・パレスにいく。名前の「城」が示す通り石造りの古めかしい立派な建物である。入口から中に入るとひんやりする。西ドイツのパスポ―トを手にしたおばさんの団体がチェック・インの最中で、フロントはごったがえしている。ロビ―のソファ―で少し待った後、手続きをする。これから三泊する予定なので、ついでにカイロの会社のオフィス宛、居所を知らせるテレックスの発信を頼む。

  不潔なエジプトの床屋を嫌って、不精に伸ばした髪を切ろうと理髪室の場所を尋ねたら、美容室しかないが兼用だという。部屋に荷物を置いた後、のぞいたたら若いきれいな女の子が手持ち無沙汰に雑誌を読んでいるだけ。客は誰もいない。少しためらったのち意を決して中に入った。チョット照れ臭かったがじっと我慢してカットとシャンプ―をして貰った。これで僅か四百円弱、笑顔でお礼を言ってチップをはずんだ。

さすが建物は頑丈である。窓際の壁を見ると厚さが50cm以上もある。カイロで生活を始めて以来、NHKの国際放送を聞くことを夕方の日課にしている。この旅行にも愛用の小さな短波ラジオを携えてきた。西アフリカ・ガボン中継の「ラジオ日本」もヨ―ロッパのあちこちで聞くことができた。それでもこの石の厚い壁の部屋の真中では無理であった。出窓の棚にラジオを置いて、日本語のニュ―スを聞いた。建物が古めかしいばかりでない。バス・タブは横長でなく、湯船の中に腰をのせる所と足をのせる所に段がついている縦長である。
腰掛けて座っても肩まで湯が浸る。日本人の僕にとっては、この方がくつろげる。

  夕食には少し早い時間であるが、ホテルの外に出た。ホテルを中心にレストラン、土産物店、ツア―などを催す観光案内所などが、軒を並べる。観光施設も「整備」されている。お祭り広場が作られている。今日の催し物は近郊のサ―クル、学校などの合唱団の演奏会だという。ステ―ジの廻りにはソ―セ―ジなどの食べ物屋、簡単な土産物屋などの屋台が出来ており、まだ時間の早い今は開店準備に余念がない。

  海岸通りの道を北に向かってしばらく歩く。途中にも近代的な外観の高層ホテルが立ち並び、その回りをプ―ル、展望レストランなどの施設が取囲む。新しい建物の家並が途絶えて緑だけになる。更にしばらく歩くと、今度はこじんまりとした古い町並が見えてきた。ピランの町である。この近代的なリゾ―トはこの古い港町を母体にできたという。小さな郵便局の脇から町の中に入る。石畳の細い路地が迷路のように入り組む。中では子供たちがボ―ルを追って走り回る。二階の窓辺からは大きな洗濯物が垂れ下がる。
戸口では頭にスカ―フ、胸にエプロン姿の太ったおばさんが立ち話をしながら、闖入者である僕に目を向ける。まるでテレビのCMで見るヨ―ロッパの下町の情景そのものである。

  海岸通りの大きな舗装道路に戻って、北のはずれにあるシ―フ―ド・レストランに入った。海岸沿いの道路に面したカフェテリア・スタイルのレストランである。道路の縁はすぐ海である。岩場であり、消波ブロックのかわりに石灰岩の大きな石塊が投げ込まれている。潮風が強くて、道路の半分が濡れている。時折僕の席までもしぶきがとんでくる。このアドリア海の向こうにはイタリアがある。対岸は夕闇のせいでなく、遠過ぎて勿論見えない。

  このレストランは四つ星表示がしてある。時間が良いせいもあり、混み合っている。客は7~8人のグル―プ、家族連れが中心で、若いカップル、中年のカップルも目立つが僕のように一人というのは他にいないようである。メニュ―を見て驚いた。高級レストランのわりには値段が安い。例えばス―プが日本円で80円、サラダは120円、メイン・ディシュは400円~1200円台が中心。大きなロブスタ―も6000円という。少し奮発してみようかと心を動かされたが、他のテ―ブルが案外質素なのを見てやめた。
孤独な東洋人の豪華な食事は気がひけた。それでも蟹の肉を素材にした料理に手頃なのがあって、冷たい白ワインとの取り合わせで十分楽しむことができた。

  町の中心地への帰りはバスに乗った。新しいリゾ―トと、この古い町の間は二輌連結の連絡バスが頻繁に往き来している。所要時間は十五分位である。繁華街に戻ると辺りは、すっかり夜の街に変身していた。街灯が明るく照らし出した通りを、人が数珠つなぎでそぞろ歩く。幅の広い道路も昼間とは主役が交代して、車は肩身が狭そうにノロノロ運転している。いずれのレストランも道路にテ―ブルと椅子を出して、しかも客が一杯である。ビ―ルのジョッキを傾けたり、コ―ヒ―をすすって、のんびりリゾ―トの夜を楽しんでいる。先程のお祭り広場ものぞいてみた。グル―プが入れ替わりステ―ジに上ってコ―ラスを響かせる。まわりの夜店にも人が群れて、狭い通路を焼鳥もどきを頬ばりながら、コ―ン・アイスクリ―ムなめながら人が行き交う。僕もそんな雰囲気の中にしばらく酔いしれていたが、また明日もあることだしと思い直して、直ぐ近くのホテルに戻った。

10. ユ―ゴスラビアへ

 ユ―ゴスラビアといっても我々大方の日本人にとっては馴染みが薄い。東欧の国であること。昔、有名なチト―という大統領がいたこと。何年か前、サラエボで冬季オリンッピクが開かれたこと。僕にとっても思い浮かぶことはこの位である。僕がユ―ゴスラビアへ行こうと思ったには実は訳がある。

 エジプトの現場勤務をしている時、短い休暇旅行をした。行先はシナイ半島の先端、紅海とアカバ湾に面した海辺のリゾ―トである。リゾ―トとはいっても名ばかり。数軒の小さなホテルと、透明度世界一の海を看板にしたダイバ―目当ての店がこれも数軒あるばかりである。このひなびた海辺で、たまたま一人のドイツ人の男と知り合った。他にはほとんど客もいない。結局、滞在中食事をすること、サンゴ礁の海に素もぐりに行くこと、昼寝をすること、何となく何時も一緒だった。彼は西ドイツの旅行社に勤めている。
 その時はカイロ臨時駐在員。本国からエジプトに来る観光客の世話をしていた。エジプトは暑い夏を迎えて、旅行にはシ―ズン・オフになる。そろそろ本国への引き上げるという時に休暇をとってやってたところであった。たった数日の滞在とはいえ、毎日が暇であることにはかわりはない。もともと旅行が好きでその世界にとびこんだ彼は、ここ二十年余り、駐在だけでも十ヵ国近いという。彼からはそれぞれの国にまつわる面白い話を色々聞いた。話が僕の旅行のことに及び、今回のエジプト滞在中にヨ―ロッパ旅行を計画しているというと、イタリアまで行くつもりなら、是非ユ―ゴスラビアまで行けと勧められた。実は彼自身もカイロ駐在から帰任後、次の駐在候補地としてユ―ゴスラビアが上がっており、その時は西ドイツに住む老母を連れて赴任するつもりだという。落着いた街が多いし、何よりも物価が安い。アドリア海をはさんで対岸のイタリアまでは、ユ―ゴスラビアの各地からフェリ―が頻繁に往復しており、片道四~五時間の距離だから気軽に買物にも行ける。とユ―ゴスラビアへの転勤を楽しみにしていた。彼にとっては不幸なことにその後、チュニジア、そしてフィリッピンの任地から絵葉書を送ってきたが…。

 カイロの宿舎に郵送されてくる日本の新聞の中に、中曽根首相(当時)のボン・サミット出席に随行した特派員の囲み記事が載っていた。彼は会議終了後、日本帰国前の休暇を利用してユ―ゴスラビアに旅行したのだそうである。一般に検閲の厳しい東ヨ―ロッパに入るのだからといって、ボンのホテルに疑わしいもの全てを置いて車で出掛けたという。ユ―ゴ国境の係官にその話をしたら、
 「この国にはポルノもありますよ。」
 と言って笑ったという。
 パスポ―トにスタンプを押すわけでもなく、入国の手続きが簡単であった。東欧は閉鎖的というイメ―ジがあるが、予想外に開かれていると感じたと書いていた。
 そんなことが興味を抱かせて、今回の旅行の行先にユ―ゴスラビアを加えたわけである。
 さて夜は遅いし、ミュンヘンの駅でビ―ルを少し飲み過ぎて、酔いも回った。ユ―ゴ国籍の寝台車にもぐりこみ、少し異臭のする毛布をかぶった。
 朝は四時過ぎだろうか、窓の外はまだ薄暗い、軍服のようなカ―キ色の制服を着た係官が乗込んで来た。パスポ―トを出すと黙って「JESENICE」と地名の入ったスタンプを押して出ていった。スタンプは押したものの入国目的を尋ねるわけでもない。共産圏に入るにしてはまことにあっけない手続きである。

 目が覚めてしまったので、窓のカ―テンを開けて、座席に腰を掛けて、しばらく車窓の景色を眺めていた。早朝の上に霧も出ていてボ―っとしている。イメ―ジがなんとなく暗い。朝早いにもかかわらず、鍬を手に畑の手入れをする農婦がいる。朝もやの中のその姿はミレ―の「落穂拾い」、「晩鐘」の絵を連想させる。スイスで見た解放的なビキニ姿の畑仕事と比較するのは酷だろうか。家の外観も暗い。駅の構内に停車している貨物列車も真黒で旧式のものが多い。西欧に比べると貧しいと考えるのはやはり多少の先入観が入るためだろうか

9. ビ―ルの都・ミュンヘンで

 チュ―リッヒの駅でミュンヘンまでの切符を買って列車に乗る。約五時間の旅である。夕方の出発のせいで、途中までは定期券の学生が乗り合わせたが、後はいつものように扉の中の六人掛の座席、他に誰もいない。こちらの鉄道も日本の国鉄と同様台所は苦しいと想像される。リクライニングシ―トを倒して、ゆっくりと車窓の景色を楽しんだ。列車は国際特急でスイスからオーストリア、ドイツと国境を二つ越える。昼間のせいもあり国境を越えるたび、入国審査官らしいのがパスポ―トを見に来たが、手続きはいずれも簡単。検印を押すどころか、オ―ストリア国境ではパスポ―トの赤い表紙を見ただけ。実質的なフリ―パスである。

田園をまたぐ きれいな虹の輪

 線路の回りは田園風景が広がる。日本の水田風景と少し違うが、緑の中に点々と農家の屋根が見える。どんな小さな駅でも、周辺に民家が立ち並ぶ所も日本と同じような気がする。欧米と比較しての日本のウサギ小屋論議、有名になって久しいが、車窓に流れる景色を見ている限り、これも彼我に差がないような気がする。田舎にだって鉄筋のアパ―トはある。緑を愛でてベランダには草花の鉢が並ぶ。平屋のこじんまりした家が続く。建物はさほど広いようにも見えない。庭のほとんどが芝生になっているところは、少し違う。庭一杯に植木を植える日本と違って庭が広々と見える。

 少し雨が降ったなと思ったら、そのうち夕日を受けて虹がさした。広い草原の上、視界を遮られない大きな弧の、きれいな虹だった。夕闇が迫り、夜の帳が下りて、しばらく後ミュンヘン駅の構内に列車は吸込まれた。

 この駅でユ―ゴスラビアに向かう列車に乗り換える。夜行のクシェットになる。切符売場の窓口に並んだが、当日売りは列車の車掌が切符を販売するとのこと。時刻表を見ると目当ての列車の入線時刻にはまだ間がある。それ幸いと駅構内のビア・ホ―ルに入る。何せ、ここは「ミュンヘン―札幌―ミルウォキ―」と有名な”ビ―ルの都“である。古い石造りの駅の、古い調度のビア・レストラン。椅子に座って、白い上っぱりのユニフォ―ムを着た太ったウェイトレスのおばさんを捕まえて、ビ―ルとソ―セ―ジのつまみを注文する。ビ―ルは通じたものの、ソ―セ―ジはどうしても通じない。あいにくとメニュ―はドイツ語だけである。しばらくやりとりしているうちに、右側のテ―ブルに座って一人ビ―ルをのんでいた僕と同年配の男と、左側のテ―ブルに年老いた両親と来ていた若い女の子が、両側から同時にやって来て、通訳をかってくれる。それだけ衆目を集めたのかと思うと照れ臭くもあったが、有難く親切を受けることにした。手振りで示して、ソ―セ―ジと言うと、男が
 「OK」
  と首を大きく振った。それからメニュ―を指差して、つけあわせが色々あると説明する。ソ―セ―ジ以外に食欲はなかったので
 「ベジタブル」
  と答えると、ウェ―トレスのおばさんに一言説明し、僕の礼の言葉を背に二人は鷹揚にそれぞれの席に戻っていった。少し緊張したので、ビ―ルはもう一杯おかわりしたが、味の方はどうも良く覚えていない。 外へ出たら、プラット・フォ―ムの端にミルク・スタンドならぬビ―ル・スタンドがある。さすがビ―ルの都だと感心してもう一杯立ち飲みした。

 余談であるが、西ドイツはなかなか開けた所である。キオスクにはダ―ティ・マガジンを売っているし、駅の構内にはポルノ映画館がある。ビア・ホ―ルの地下のトイレには鏡の脇に自動販売機があった。

 ホ―ムで列車の入線を待って、乗り込んだ。車内でカイゼル髭を生やした、その割に年の若そうな車掌に乗車を申込んだところ、
 「今夜は空いているから、好きなところで座っていろ。」
  という。発車したら切符を売るという。ホッとして席を捜す。これまで乗った車両に比べるといささか古いし、日本の寝台車のと同じような匂いがした。

8. アルプス登山鉄道

 アルプスと言えばマッタ―ホルン、ユングフラウ、ツェルマットなど観光地が多い。どこに行こうかと最初は迷ったが、登山電車で山頂近くまで行ける“若い女性”―ユング・フラウに決めた。登山で有名なアイガ―も近くにあるという。列車でベルンを経由して、先ずインタ―ラ―ケンに行く。この車両は対座式の普通のシ―トである。昨夜の列車ほどは空いていないが、それでも乗客は半分くらいだろうか。車窓の景色はゆっくり起伏する丘の上に作られた小麦畑、牧草地である。北海道の十勝、富良野あたりを思い出させて懐かしい。畑仕事をする人の姿を所々に見かける。若い男は上半身裸、そして若い女性は上半身ビキニ姿なのがおかしい。日光浴を兼ねているのだろうか。

アイガーの険しい峰

 駅の回りにだけ、工場が見られる。考えてみればスイスは世界有数の工業国である。日本にもいくつか“東洋のスイス”があったはずである。観光客の僕の目には、観光、農牧畜、工業が見事に調和している様に映るが、実情は違っているかもしれない。ただ工場の庭に、荷物運搬用の木のパレットが整然と積み上げられた風景は印象的であった。日本の職人気質に通じる物を大切にする精神が感じられる。このへんはやはりエジプト人などとは違う。

 古い歴史都市ベルンで列車を乗換える。こちらもさほど混んではいない。窓際にゆっくり席を占めることが出来た。しばらくして列車は湖のほとりを走るようになる。途中停車する駅のいくつかは保養地になっているのだろう。とにかく景色がよい。湖の水際からなだらかに高くなる山の中腹には山小屋風のホテルが点々と続いている。トンガリ屋根の時計台を備えた白い壁の教会も見える。湖面を観光船が走る。ヨットやボ―トも浮かんでいる。あいにくと湖とは反対側の窓際に座ってしまった。反対側の座席には金髪の美女が一人座り静かに目を閉じて眠っている。気安く席を移るわけにもいかない。仕方がないのできれいな景色には通路越しにカメラのシャッタ―を何度か切った。そのうち悪戯心が起きて「眠れるスイスの美女」を盗み撮りしようとした。レンズをむけてシャッタ―を押したとたん目を開いてこちらを見た。とがめる目ではないので安心した。案外たぬき寝入りをしていたのかもしれない。この美女には後ほど話かけて道を聞いた。同じインタ―ラ―ケンでもウェスト(西)とオスト(東)二つの駅どちらで降りてよいかわからなくて本当に困ったから…。親切に教えて貰ったのはいうまでもない。

 今晩は登山口の保養地インタ―ラ―ケンに泊まろうか、それとも中腹の観光地グリンデル・ワルトにしようかと迷っているうちインタ―ラ―ケンに着いた。もしグリンデル・ワルトまで行くのなら、支線の登山鉄道の乗換え時刻まであまり時間がない。駅の切符売場に急いで飛び込んだら、カウンタ―の上にこの付近の観光ガイド・ブックが並べてあった。中に日本語版があった。有料だったが印刷が立派なので料金を払って手に取った。パラパラとペ―ジをめくったらグリンデル・ワルトも観光施設が充実しているようだ。なるべく奥まで入った方が明日のスケジュ―ルに余裕が出来る。迷わず切符を買って出発ギリギリの電車に飛び乗った。

 登山電車は針葉樹林の中、しぶきを上げて流れる急流にそって曲りくねった線路をゆっくり遡る。途中ログ・ハウス(丸太小屋)風の小さな駅に停っていく。客の乗り降りが少ないかわりに皆顔見知りである。客は駅員、運転手と挨拶を交わして降りていく。どの駅にも郵便夫が自転車の側で待っていて、郵便袋を積み換える。その動作ものんびりとしていて微笑ましい。世界的に有名な観光地でも地元の人が不思議と擦れていない。

 電車の終点がグリンデル・ワルトである。駅の構内も回りも区別がない。まるで路面電車のように客はドアから降りると最短距離に歩いていく。
 いつもの様に先ずは宿捜しである。手元のガイド・ブックには
 「駅前のホテルに日本語の観光案内所があります。どんな相談にものります。」
  と案内がでている。いずれ私営らしい。他に公営のホテル案内所の標識があった。行ってみると無人である。壁の大きな地図にホテルの位置が示してあり、隣にホテルごとの料金表と満室・空室の電光表示がある。自分の希望に合ったホテルがあれば、備え付けの無料電話で直接ホテルのフロントと交渉するらしい。先に英語を話す若夫婦が交渉するのを聞いていて、見習って電話をしたら話は直ぐまとまった。
 駅裏の高台のアルペン ホテル。この村自体がそれ程広くないが、このホテルは村の中心にあり、どこに行くのにも便利な場所に立っている。旅も中盤を迎えいささか疲れのたまった重い足をひきずりながら、坂の上のホテルを目指した。ホテルは家がまえは立派だが収容数から言ったら、さしずめ日本のペンションにあたるのだろうか。実際、応対に当たったのは人の良さそうな太ったおばさん。家族で切り回しているようにみえる。料金も日本円で六千五百円程度と割安である。これでコンチネンタル・スタイルの朝食が付く。こざっぱりした部屋で一息入れて飲んだ水の冷たくて美味しかったこと。水源は谷川の雪どけ水なのだろう。

 時間はまだ四時過ぎである。部屋を出て村の中心部をぶらつく。村の一本道に沿って土産物屋、ホテルが並ぶだけでそれほど賑やかでない。観光シ―ズンのピ―クでないせいも有ろうが、幾組かの観光客が散策しているに過ぎない。一軒のス―パ―・マ―ケットではオ―トバイで駆付けた客が牛乳、パン、ワインなどを大きな紙袋一杯買い込んでいる。どこかでキャンプ生活をしているのだろうか。

 外にテ―ブルを出しているレストランでビ―ルを飲みながら、買い込んだ絵葉書にペンを走らせていてビックリした。黒い詰襟を着た男子中学生が数人、地味な背広を着た背の低い中年の男性が数人、更には紺の背広の制服の女子中学生が数人こちらに向かって歩いて来る。姿格好からして紛れもない日本人のグル―プである。女の子は白やピンクのズック靴を履いている所を見ると都会の子供達ではない。
 ビックリした気持ちが落着くと、今度は非常な興味が沸いてきた。グル―プの大部分が建物の中に入り、残った数人の女の子に近付いていった。胸に浮かんだ疑問そのままに聞いてみた。
 「中学生?」
 「そうよ。」
 「修学旅行?」
 「まさかァ―!」
 「どこから来たの?」
 「長野県」
ここで先程読んでいたガイド・ブックの中に「グリンデル・ワルト村と日本アルプスの村は姉妹村です。」の下りを思い出した。
 「はは―ん 安曇野だな」
 「するど―い! どうしてわかったー?」
 「・・・。」
 しかし本当に驚いた。こっちは三十も半ばの年になってようやく、それも乗物を乗り継いでたどりついたヨ―ロッパに、制服にズック姿の日本の中学生がいるのだから。彼等の幸運を祝福せずにはいられない。考えてみればこのレストランはシティ・センタ―の建物にある。親善使節の宿舎になっているそうだ。

 夕食は谷を隔ててアイガ―の正面のテラス・レストランでとった。ユング・フロウ・ヨッホの白い雪を抱いたピ―クはアイガ―に遮られて見えないが、アイガ―に始まる山々の岩肌が目前に迫る。約一億年前を中心に起こったアルプス造山運動の文字通りの産物であるこの雄大な褶曲山脈、何年か前その麓で働いたカナダのロッキ―山脈にそっくりである。この景色を見ているとヨ―ロッパ・アルプス、北米ロッキ―山脈とも同じ造山運動で出来たという地質学教科書の説明が妙に説得力を持つ。違っているといえば歴史の古いスイス・アルプスが樹林限界ぎりぎりまで手を入れられて牧草地になり、牛がのんびり草を食んでいることだろうか。それに比べると人の少ないカナダでは自然の加工まで手が回らない。樹々・草花はそのままに放置され、その間を一筋通るハイウェイには熊、鹿などの野生動物が餌をねだって車に押しかける。

 翌朝一番の電車で山を登る。緑の牧草地の中を、可憐な高山植物の花々の咲き乱れるスロ―プを電車がゆっくり登っていく。冬にはこのスロ―プが雄大なスキ―・ゲレンデに変わるという。客はスキ―をもって上の駅まで登り、後はゆっくり麓のグリンデル・ワルトまで滑り下りる。
 峠の中継駅クライネ・シャイデックで乗り換える。氷河を背にしたロッジ風の駅、カラフルな登山電車。どれも絵になるので、胸の一眼レフカメラのズ―ムレンズを伸ばしたり、縮めたりして夢中にシャッタ―を切った。自分の記念写真を撮って貰おうと近くの観光客に別のバカチョン・カメラを渡した。電車の車両を背にポ―ズをとっていると、年老いた車掌が窓から顔を出し、 「その小さいのは、お前を撮る専用のカメラかい。」
  と笑いながら冷やかす。

アルプスの登山電車

 ユング・フラウに向かう登山電車はベ―ジュとエンジのツ―トン・カラ―でいずれも二両編成。車輪の脇の歯車で大地をしっかりと踏み締めて、急勾配の線路を登り下りする。車両のそれぞれには名前が付いている。駅の引き込み線の沢山の車両の中に、胴体に日の丸を付け漢字で「大津」と名付けられた一両があった。命名の裏にはどんないきさつがあったのだろうか…。

 電車は定刻通り出発した。見ていれば、二両編成の電車が一杯になると、次々に別の編成が仕立てられて山を登って行く。この急峻な山岳地帯を走る登山電車が十九世紀後半に計画され、十五年余りの工事を経て千九百十二年に既に完成していたことに驚きを覚える。日本でいえば大正元年のことである。電車は峠の駅を出た後、しばらく尾根の上を走り、トンネルに入る。アルプスの硬い変成岩をくりぬいてつくられたこのトンンネルは、このままユング・フラウの頂上駅まで続く。その全長七km余、標高差は約千二百mである。

 この電車の車内案内放送はスイス語(ドイツ語)に始まって五ヵ国語、最後は英語の後に日本語である。母国語は神経を研ぎすまさないでも、すんなり耳に入るのでやはり快適である。
 その放送がアイガ―壁展望台での五分間の停車を告げる。このトンネルは、アイガ―の岩壁に近い所で一部外に向かってくり貫かれ、展望台になっている。世界三大北壁の一つで、登山の難所として有名なアイガ―北壁の真中に展望台があるとは、ここに来るまで全く知らなかった。アイゼンをはき、ハ―ケンを打ちながら挑むその絶壁のすぐ内側を快適な登山電車が行き来している。死と隣合せのチャレンジャ―を軽装の観光客が覗き込む。そんな不思議な光景がここには存在する。それはともかくとして、この展望台からは麓の村、そして緑の牧草地が遠望できる。窓はガラス張りで外気と遮断され、外の冷気は伝わらない。

 再び乗車して頂上のユング・フラウ・ヨッホ駅へ。プラットフォ―ムの直ぐ隣の”ヨ―ロッパで最も高い“が歌い文句の郵便局で切手を買い、昨日書いた絵葉書を投函する。売店には日本のフジカラ―・フィルムが売っていたので一つ買った。

ユングフラウヨッホの頂上にて

ユングフラウヨッホの頂上にて


 氷河の氷をくりぬいた青緑色の”アイスパレス“を足が滑らないように注意しながら通り過ぎ、展望台に出た。天気があまり良くないせいもあり肌寒い。重装備のスキ―ヤ―が目の前の白い万年氷河を滑り降りていく。同じ型のカメラを持った中年の日本人観光客がいたので、氷河を背にシャッタ―を押して貰った。帰りの電車の出発時刻まであまり時間がなかったが、記念にと思い展望レストランで小さなビ―ルとソ―セ―ジを口に入れた。

 帰りは一直線である。線路は単線のため、途中の中継駅で登りの電車とすれ違う。再びクライネ・シャイデックで乗り換え、今度はラウタイ―ブルンネンを経てインタ―ラ―ケンへ戻る。途中の景色もまた素晴らしい。牧草地の中の村落の背には高さ百メ―トル以上はあろう絶壁が迫り、岩壁の上からは凄い水量の滝が流れ落ちる。その迫力、華厳の滝もとてもかなわない。そんな滝が絶壁にそって何条も落ちているいるのだから又凄い。

 インタ―ラ―ケンからはベルンに戻って更にチュ―リッヒへ。チュ―リッヒでは次の列車待ちの時間を利用して駅前の繁華街を散歩する。教育者として名高いペスタロッチの銅像が立つ界隈は銀行の支店、デパ―ト、商店などでとても賑やかである。有名なア―ミ―・ナイフを売る店などを冷やかして歩いたが、品揃えなど東京の大手デパ―トに比べるといまひとつである。Tシャツ・コ―ナ―の一角に“TOKIO”と染め抜かれたシャツが並んでいた。東京がファッション先端の街という評価が実感を伴って胸に迫った。

7. 山岳特急でスイスへ

 印象の好ましくないロ―マを離れることになった。テルミニでは改札口に駅員が立っている。切符を見せるか、送迎・一時預り荷物の出し入れなど、中に入る理由の申告が必要なようである。日本では当り前であるが、ヨ―ロッパでは珍しい、この後いくつかの駅で乗り降りしたが、いずれの駅も出入りは自由であった。プラットフォ―ムに待つ列車に乗り込む。通路が車輪と同じ高さのため、ステップ・車両の床が高い。年寄り、重い荷物の運搬には不便だと思う。指定された座席は有名なコンパ―トメントである。通路側にはドアが付いている。まだ新しい車両で気持ちが良い。出発までしばらく待ったが、同じ部屋には誰も乗り込んで来ない。窓から外を見ると、他の乗客達は、上半分が開く窓から身を乗り出して、見送り人と別れを惜しんだり、旅立ち前の一時を楽しんでいる。

森と湖の国 スイス


 列車は、ほぼ定刻に何の前触れも無く、ガクンという軽いショックと共に動き出した。まもなく若い制服姿の係員が、毛布を片手に回って来て、ベットを作ってくれる。二段ベットである。同室者はいないから、夜はドアをロックして寝たら良かろう。車掌室に軽い夜食、飲物の用意がある、必要ならと言ってメニュ―を置いていってくれた。夜中に国境を通過するのでパスポ―トを預ける。駅の移動売店で買った缶ビ―ルを飲み、バックに一本入れて持ち歩いているスコッチ・ウイスキ―を少し飲んだら、眠くなってきた。ドアに鍵をかけ、ライトを消して上のベットにもぐりこんだ。

 次の朝、シュ―と言う蒸気の音で目が覚めた。列車は止まっている。窓のカ―テンをめくって外を見ると、まだ薄暗い、時計は四時前である。外気は相当冷えているのだろう、蒸気が白い。駅はまだイタリア領である。スイス・アルプスの手前である。機関車を前後付け替えている。なかなか出発しないので、又眠ってしまった。その次目を覚ました時、列車は森の中を走っていた。もう十分明るい。一、二度、谷あいの小さな駅に停車する。駅の回りの家々はしゃれた感じで落着いている。明るい感じのギリシャ、イタリアの南部とは趣が違う。いくつかトンネルを過ぎて、急に見通しが開けてきた。列車は深い谷の中腹を走る。針葉樹林帯とその間を埋める緑の牧草地。山の頂の岩肌の際まで、牧草地が続く。それだけ人間が自然に手を入れている証である。小さな丘の中腹には、可愛い教会の建物が立っている。いかにも絵で見るスイスらしい。これで牛が草を食んでいればもっと絵になると思っていると、本当に茶色の牛の群れが草場で遊んでいる。

 谷を挟んで反対側の山裾には高速道路が通っている。コンクリ―トの橋脚も高く、立派な道路であるが、走る車は多くない。送電線が道路に併行して敷設されている。急な斜面の林の中にニョッキリ頭を出している高い鉄塔。人口密度の低い地域、そして厳寒の気候を考える時、これら社会生活基盤の整備、維持に使われる金額は、並々でないと想像される。スイスの牧歌的生活を支えるのも容易ではない。
 更に走ると、湖が見えてきた。遠くには頭に白い雪をいただく高い岩山が望める。森と湖の国“スイス”の典型的な景色が車窓に広がる。小さな町に停車して、高校生くらいの男女が四・五人、僕の“専有”するコンパ―トメントにドヤドヤと乗りこんで来た。窓側のドアを乱暴にあけて、入ったとたん、挨拶も無しに空いている席に座る。一人は上のベットに跳ね上がる。この列車、国際特急だとばかり思っていたが、朝夕は通勤・通学にも使うのだろう。直ぐに車掌が検札に来て、それぞれ定期券を示し、二つ目の駅でまたドヤドヤと降りて行った。朝の九時過ぎスイスのチュ―リッヒに到着。

 駅に着いて、取り敢えず銀行の出張所でスイス・フランに両替する。考えてみると、イタリアから国境を越えてスイスに入った訳だが、夜中のことゆえ国境通過の手続きは係員が代わってやってくれた。こちらはただ眠っていればよい。お金の交換の方が面倒くさいのだからおかしな話である。

 駅では先ずキオスクで牛乳を飲んだ。牛乳はそれ程好きではないが、エジプトでは生牛乳は飲めないから、この五ヶ月間、全く飲んでいない。スイスの牛乳はおいしいという話を友人から聞いていたのでまず試してみたが、結論からいうとそれ程美味しくはなかった。口直しではないが、駅構内のレストランに入った。朝食に本場のソ―セ―ジとビ―ルをおなかに入れた。こちらの方がやはり美味しい。

 鉄道案内所でユ―ロレイルの時刻表を買ってこれからの作戦を練る。駅の正面に回って観光案内所へ入った。壁のポスタ―の下にはそれぞれの観光地のパンフレットが置いてあるので、スイス・アルプスの案内書をいくつか手にとった。部屋の真中の円形カウンタ―には三人の案内嬢が座って、観光客の質問をてきぱきとさばいている。内二人は髪の黒い若い東洋人である。相手によって英語、仏語等を見事に使いわけている。始め英語で話し掛けようかと思ったが、試しに日本語で
 「すみません。」
  と聞いてみた。少し間があったものの、 「はい、何でしょう。」
と答が戻ってきた。やはり日本人だった。下手な英語で声を掛けなくて良かったと一瞬ホッとした。チュ―リッヒから遠くないアルプスの名所を教えて貰った後、チュ―リッヒの日本語版ガイド・ブックを貰った。カウンタ―を離れて見ていると、次から次へと詰め掛ける客の応対を手際よくこなしている。それにしてもすごい。スイスと言えば公用語だけでもいくつかある。その上近隣のフランス・イギリスと必要な言葉は多いはずである。そういう場所で二人の日本人女性が立派に働いている。どういう身分かは知らないが、一般に語学に弱いと言われる日本人がそんな条件をこなしているということにいたく感心した。

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