旅日記

若き日の旅の思い出

那須に住む番外編

10. ユ―ゴスラビアへ

10. ユ―ゴスラビアへ

 ユ―ゴスラビアといっても我々大方の日本人にとっては馴染みが薄い。東欧の国であること。昔、有名なチト―という大統領がいたこと。何年か前、サラエボで冬季オリンッピクが開かれたこと。僕にとっても思い浮かぶことはこの位である。僕がユ―ゴスラビアへ行こうと思ったには実は訳がある。

 エジプトの現場勤務をしている時、短い休暇旅行をした。行先はシナイ半島の先端、紅海とアカバ湾に面した海辺のリゾ―トである。リゾ―トとはいっても名ばかり。数軒の小さなホテルと、透明度世界一の海を看板にしたダイバ―目当ての店がこれも数軒あるばかりである。このひなびた海辺で、たまたま一人のドイツ人の男と知り合った。他にはほとんど客もいない。結局、滞在中食事をすること、サンゴ礁の海に素もぐりに行くこと、昼寝をすること、何となく何時も一緒だった。彼は西ドイツの旅行社に勤めている。
 その時はカイロ臨時駐在員。本国からエジプトに来る観光客の世話をしていた。エジプトは暑い夏を迎えて、旅行にはシ―ズン・オフになる。そろそろ本国への引き上げるという時に休暇をとってやってたところであった。たった数日の滞在とはいえ、毎日が暇であることにはかわりはない。もともと旅行が好きでその世界にとびこんだ彼は、ここ二十年余り、駐在だけでも十ヵ国近いという。彼からはそれぞれの国にまつわる面白い話を色々聞いた。話が僕の旅行のことに及び、今回のエジプト滞在中にヨ―ロッパ旅行を計画しているというと、イタリアまで行くつもりなら、是非ユ―ゴスラビアまで行けと勧められた。実は彼自身もカイロ駐在から帰任後、次の駐在候補地としてユ―ゴスラビアが上がっており、その時は西ドイツに住む老母を連れて赴任するつもりだという。落着いた街が多いし、何よりも物価が安い。アドリア海をはさんで対岸のイタリアまでは、ユ―ゴスラビアの各地からフェリ―が頻繁に往復しており、片道四~五時間の距離だから気軽に買物にも行ける。とユ―ゴスラビアへの転勤を楽しみにしていた。彼にとっては不幸なことにその後、チュニジア、そしてフィリッピンの任地から絵葉書を送ってきたが…。

 カイロの宿舎に郵送されてくる日本の新聞の中に、中曽根首相(当時)のボン・サミット出席に随行した特派員の囲み記事が載っていた。彼は会議終了後、日本帰国前の休暇を利用してユ―ゴスラビアに旅行したのだそうである。一般に検閲の厳しい東ヨ―ロッパに入るのだからといって、ボンのホテルに疑わしいもの全てを置いて車で出掛けたという。ユ―ゴ国境の係官にその話をしたら、
 「この国にはポルノもありますよ。」
 と言って笑ったという。
 パスポ―トにスタンプを押すわけでもなく、入国の手続きが簡単であった。東欧は閉鎖的というイメ―ジがあるが、予想外に開かれていると感じたと書いていた。
 そんなことが興味を抱かせて、今回の旅行の行先にユ―ゴスラビアを加えたわけである。
 さて夜は遅いし、ミュンヘンの駅でビ―ルを少し飲み過ぎて、酔いも回った。ユ―ゴ国籍の寝台車にもぐりこみ、少し異臭のする毛布をかぶった。
 朝は四時過ぎだろうか、窓の外はまだ薄暗い、軍服のようなカ―キ色の制服を着た係官が乗込んで来た。パスポ―トを出すと黙って「JESENICE」と地名の入ったスタンプを押して出ていった。スタンプは押したものの入国目的を尋ねるわけでもない。共産圏に入るにしてはまことにあっけない手続きである。

 目が覚めてしまったので、窓のカ―テンを開けて、座席に腰を掛けて、しばらく車窓の景色を眺めていた。早朝の上に霧も出ていてボ―っとしている。イメ―ジがなんとなく暗い。朝早いにもかかわらず、鍬を手に畑の手入れをする農婦がいる。朝もやの中のその姿はミレ―の「落穂拾い」、「晩鐘」の絵を連想させる。スイスで見た解放的なビキニ姿の畑仕事と比較するのは酷だろうか。家の外観も暗い。駅の構内に停車している貨物列車も真黒で旧式のものが多い。西欧に比べると貧しいと考えるのはやはり多少の先入観が入るためだろうか

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