旅日記

若き日の旅の思い出

那須に住む番外編

9. 多国籍人種企業

9. 多国籍人種企業

 多国籍企業と言う言葉があるが、我々のキャンプはあちこちの国から来た人間の集まりであった。多国籍人種企業だと上司のSさんはいつも笑っていた。豊かな資源をもつ国カナダは、その資源を生かすだけの人材がいない。いきおい他国からの応援を仰ぐことになる。そもそもデニソン社の創業社長ローマン氏はその当時六十歳後半であったが、六歳の時チェコスロバキヤから渡ってきた移民の一世である。その他の顔ぶれを見ると、先ず宗主国イギリスからはデニソン社の若き地質技師ジョンペリー氏。彼は卒業後直ちにこの豊かな資源国にやってきた。

 一時、プロジェクト・ジオロジストとして、キャンプの全ての運営を取り仕切っていたのはドイツ人。年の割りには青く澄んだ目と、顎鬚をさすりながら話をする癖のある一見好人物であったが、毎晩都会の町に住む奥さんに事務所の公用無線を使ってラブコール。この公私混同もさることながら、石炭地質の専門知識にも疎く、キャンプ全体のマネージメント能力にも問題があり、間もなくポストから外された。

 最初にキャンプにいた比較的年のいった地質技師は「オフトン、オフトン」と英語のoftenの発音に特徴的なチェコ人。人は良さそうだがガサツな風貌、動作が災いして彼も余り長くなかった。
 ほんの短い間だったが、若いミセスのユーゴ人の地質技師が単身で働いていたことがある。ミーティングの集まりの時に、本来セルフサービスであるコーヒーを人数分お盆にのせて運んできたりと、女性的な面もあったが、大して接触の無いうちに、短い休暇から戻ってきたらもう居なかった。

 そんな中で最も印象に残る一人は、インド人地質技師のサギ氏。人の悪い私が手元の和英辞書のsagiの欄を開いて見せて「詐欺」という日本語で笑い合ってから打ち解けた。当時まだ三十才を過ぎたばかり。カナダ東部ケベック州の鉄鉱山で働いていたが、社内のレポートでさえ、フランス語併記であることに嫌気をさして、純然たる英語圏西部に移ってきたという。肌の色は浅黒く精悍そのもの、利発さにおいては右に出るものなし、こちらのたどたどしい英語の一を聞いて十の仕事を部下に指示してくれる頼もしい同僚であった。ある時彼の運転するフォードのピックアップに乗って、先輩のYさんと山の中腹の試験採炭現場へ。車の中で日本語で「ハチ」号の現場はどうのと話していたら、突然「ハチはエイト」のことかと英語で耳ざとく聞いてくる。こちらもその正解に半ばびっくりしたから、その訳を尋ねると。インドの故郷は回りにも十二程の部族があって、それぞれが全く別の言葉を話している。そんな所に生活していると、子供の頃から言葉のセンスは非常に鋭敏になるのだそうだ。
 その彼はデニソン社の勤めが長く、このキャンプ生活の数年後に別のプロジェクトの現地調査でバンクーバーを再訪した機会には、我々調査団の前に技術の責任者として現れ、立派なプレゼンテーション(説明)をしてくれた。
 悲劇はその後に起こった。シーク教徒の過激派によるテロでインド航空のジェット機が太平洋上で消息を絶ったニュースは日本でも大きく報道された。彼の最愛の家族は故郷へ一時帰るために彼だけを残して、不幸にもバンクーバー発ニューデリー行きのこの飛行機に乗った。一度彼の家に招待されて御馳走になった激辛の本場カレーと、サリーをまとった美しい奥さん。額に小さな印をつけた幼い女の子の記憶は今も鮮明である。彼はそのショックによる虚脱感から会社をやめ消息を絶ってしまったことを風の便りに聞いた。

 この他、キャンプの調査業務をサポートするサービス・カンパニーの人間には本当に多くの人間がいた。ヘリのパイロットは先にも書いたようにイタリア人、ドイツ人がいる。

 測量士はアラスカ・パイプラインの仕事を求めて渡ってきたという若いスウェーデン人。環境アセスメントの基礎データをとるのは、香港からやってきた中国人。彼はダイニングの隣でやる卓球が滅法強かった。なんとなく卓球を御家芸にする東洋人のステレオタイプなところが面白い。

 道路付けなど土木工事の現場監督(コーディネーター)はオーストラリア人。彼に地形図を示して、ここを掘り込んでくれと依頼すると、同じ地域を撮影した航空写真を睨み、ヘリに乗って現場に飛んでいく。彼が赤いテープで目印をつけてきた位置は常にドンピシャリ。広くて単調な目印のない土地で良くもまあ、さすがプロだと思ったものである。ブルドーザの運転手(キャット・スキナー・キャタピラー社製のブルドーザを使う(地面の)皮剥職人の意)に作業を指示するのも彼の仕事。

 石炭のコアから分析サンプルの採取を専門にするのは、これまたドイツ人。先程の髭のプロジェクトマネージャーと二人だけで事務所で良くドイツ語を暗号のようにして話込んでいたものである。

 当たり前のカナダ人についていえば、冒頭書いた後に国会議員になった地質のマネージャー、ジョンソン氏。彼の弟でその後、同じく地質技師として入社したD・ジョンソン氏。彼は大学の地質学科を出た後に、ハンバーガー・ショップ勤務、小学校教師を経てマネージャーとしてやってきた。随分色々と職種が変わるものだと思ったものである。

 大変お世話になったのは地質屋のゴードン氏。最初に会った時は三十を少し過ぎたばかり、その頃のポジションは一つのプロジェクトの管理・監督をするプロジェクト・ジオロジスト。次の年は少し昇格して、探査プロジェクトを総括するExporationManager。更に翌年は偉くなって地質技師のトップ。チーフ・ジオロジストに就任した。

 プロジェクト・ジオロジストとして、キャンプの円滑な運営、特に探査の順調な進捗を促す鍵は、客人待遇の調査のキー・パーソンである我々日本人の地質グループを如何に効率良く使うかに限る。私のような、技術も未熟。英語も全く分からないような若造にまで気を使って、毎日を暮らす。極端な場合。コミュニケーションは彼からの一方的な問い掛け。作業の方針について、「こうしようか?」
 と聞いてくる。何を言っているのか分からないから、正直に頭をひねる。
 今度はもっと平易な英語で
、 「こ・う・い・う・ふ・う・に・し・よ・う・か・?]
   と聞き直す。
 これを何度か繰り返して。最後にこちらが理解して「イエス」または「ノー」の返事をして話が決まる。
 相当なストレスが堪るであろうことは他人事のように同情するばかりであるが、それが証拠に、キャンプで我々と一緒に作業するときに、彼は煙草を殆ど指から離さない。明らかにチェインスモーカーである。
 ある時私の上司が無邪気に 
「ゴードンは何時もそんなに煙草を吸うのかい?」
    と尋ねたら、
「日本人と過ごす夏の(キャンプの)間だけだよ。」
    と悲しそうに答えた。

 冬になり、現場調査も一段落して、都会のオフィスで作業するようになると、自宅に招待してくれたり、家族を呼んで、レストランで食事を一緒にしたり、これまた更に気を使ってくれる。

 日本の師走の便りが届き始めるころ、足掛け半年の長い滞在生活にも倦み、最後は半ばドタバタとデータ整理をまとめ上げて、帰国を前に気もそぞろとなる。仕事の合間に家族への土産などを買い揃えて、いよいよ帰国。こちらは嬉しさの絶頂になる。
 最後の日、空港まで送りに来てくれたゴードン氏。まわりの広いロビーのあちこちに、別れを惜しむ家族、あるいは涙を流してしだれかかる若いカップルの姿がある。その中で、ようやく妻子の待つ日本に帰ることができると、私の上司が無邪気に軽く
「バイバイ、ゴードン」
    と声を掛けると。
「ジョージー…」
と大きな体を小さな日本人に覆い被さるように折りながら、涙声で別れを惜しむ。どちらがドライな西洋人かと、目をパチクリしたものである。

ゴードンとジョージことKさん
(脇のヘリはヒューズ500)

さて最後は日系二世のKさん。第二次大戦中キャンプに強制収容され苦労した父親の庇護のもと、カナダの超一流大学、トロント大学の工学部を卒業する。カナダの鉄鉱石会社の日本駐在員を長く勤め、沖縄出身の奥さんと日本で結婚。その後カナダに戻った彼は、今また日本企業のカナダ進出の支援を行うべくカナダで活躍といったところ。顔つきは日本人であったが、生粋日本人の我々から見れば、バタ臭いオーラがたちのぼる。それでもホテルのバーで
「バランタインアンドウオーター」
 などと我々日本人が聞き取れないような発音でウエイターにスコッチのお代わりを注文し、とことんまで飲んでしまうのは日本人の子孫であるせいかもしれない。

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