旅日記

若き日の旅の思い出

那須に住む番外編

10. カナダの町々

10. カナダの町々

 人里離れた山の中での暮らしが中心であったが、折りに触れて麓の町や村、そして、都会とされる街での生活もあった。

 カナダでそして外国で最初に一夜を過ごした町がドーソン・クリークであることは最初に書いた。定かではないが、この人口五ー六千人の小さな町は開拓時代に当時の山師と思われる地質技師のDr.Dowson が最初に足を踏み入れた沢( Creek) に由来するという話を聞いた。

 現在の生活の糧が何であるか、これも定かでないが、線路の所々にカンツリータワーと称する、グレーン(穀物)の貯蔵かつ貨車への積込み施設が立っているところをみると、農業が中心のようだ。ヘイと呼ばれる牧草畑が一面に広がっているところを見ると肉牛などの牧畜も盛んなようである。

 しかしこのような小さな田舎町でも、郊外には道路際に広い駐車場を持つショッピングモールがあり、同じく道路沿いには自動車旅行者用のモーテルが点々と並んでいる。その当時の日本の田舎と比較して、片田舎でもさすが外国だと感心したものである。
 更に街の中心には、大きくはないが、がっしりとした古いホテルがある。建物の中のレストラン、バーはそこそこの雰囲気で楽しむことができる。我々日本の旅行者が、息抜きの出来る「日本メシ」屋こそさすがに無いが、「シナめし」屋こと中国料理屋は専門店が二軒、普通の西洋料理の片手間に中華料理を出す所はその他に一、二軒ある。これらの店では、ウエィター、ウエィトレスは一部が白人だが、中国人がテーブルの客を仕切っている。つまり、ここは中国人の店。こんな内陸にも逞しい華僑が住み着いているのである。

 余談になるが、後年このプロジェクトの仕事でカナダを再訪する機会があった。上司との道連れで、バンクーバーの空港待合室で、ドーソンクリーク行きのローカル便の飛行機を待っているとき、東洋人の男性から、カン高い調子で突然何か話掛けられた。こちらは何も分からないので、びっくりして戸惑っていると、しばらくして向こうは普通の英語で釈明してきた。
「てっきり香港人かと思ったもので….失礼しました。」
 先程の言葉は広東語であったらしい。彼は現在、旅行社に勤めているというが、従兄弟がドーソンクリークで中華料理屋をやっている。聞けば、我々も行ったことのある先程書いた店がその一つである。その後、ドーソンクリークに到着し、三週間ほどの滞在中に、その店に食事に行くことになった。店のオーナーに来る途中、あなたの従兄弟に私が中国人に間違えられた話をすると、
「あなたの顔は典型的な香港中国人の顔の一つですからね。」
 と笑われてしまった。親近感を持たれるのも良いことか、悪いことか。

 州境を越えたアルバータ州の町、グランドプレリーは、山のキャンプから車で六時間ほどで行ける「麓」の町。文字通りの骨休みに何度か滞在した町である。「広大な平原」の意味する名前の通り、地平線はともかく、緩い起伏の穀物畑の中を真っ直ぐな舗装道路がどこまでもどこまでも続いている中に、ポツンと人口密集地がある町である。
 ここも先のドーソンクリークと同様、穀物の集散地として発展した町である。町並みはドーソンクリークと同じ、ただ人口が少し多い分だけ、施設が充実しているように見える。山の仕事で足を挫いた先輩に付き添って、訪れた病院は、構えも石造りで立派、医者、看護婦の数も多く、医療設備も整っている。田舎でも外国の病院は立派とここでもびっくりしたものである。

 チェトウインドは、キャンプから車で三時間程で辿りつく最も近い村である。森林地帯の中に一筋造られた道路を、丸木橋のような橋で沢を幾つか渡って、更に灌木の中を走るとこの小さな村に到着する。田舎とはいえ、ハイウェイに面しているが、自給自足に近いような農林牧畜業と、製材業で生業をたてる村である。村のあちこちに製材所で出たオガクズを燃やすサイロから白い煙が立ち上ぼっている。まことに小さな村であるが一通り何でも手に入る。煙草、電池に始まる日用品の買い出しにと、たまにではあるが、この最も近い人里に何度か下りたものである。村の小さなモーテル、イプス・イッチではまがい物ながら中国料理を楽しむことが出来る。小さなレストランの中で注文ができる春巻、ヤキソバ、小海老のテンプラなどはその時の大きな楽しみであった。

 アルバータ州第二の都市カルガリーは石油の町である。州内に広く分布する、石油、ガス、オイルサンドの開発会社が軒を揃える。また極北の準州ユーコンの膨大な石油資源へのアクセスもここの空港から、石油会社の専用定期便で行う。さしずめカナダのヒューストンといったところか。当時デニソン社の西部支社がこの町にあった。その関係で、最初の年は三ヶ月、翌年は一月半ほどこの町に滞在することになる。数年前の冬季オリンピックの開催地で一般には馴染みがあるが、もともとは鉄道によって東部から人が流れ込み、肥沃な平原に穀物、牧畜で大きくなった「西部」の町である。アメリカと同じ様に先に開けたヨーロッパに近い大西洋岸の東部とは、大陸横断鉄道で繋がっている。旧市街の中心は鉄道会社CP(カナディアン・パシフィック鉄道)の駅と同じ経営の隣接するヨーロッパの古い城郭を模した格調の高いホテルである。数ブロック向こうにはこれも煉瓦造りで古そうであるが、今一つ安っぽいヨークホテルがぽつんと立っている。

 かつては牧畜が盛った故、今でも年間最大のお祭りは「カルガリースタンピード」と呼ばれるロデオとチェッカーワゴン(幌馬車レース)などを呼び物にしたものである。隣の州都エドモントンがクロンダイクという、ゴールドラッシュ時代の金鉱探しをテーマにしているのに比べれば、随分健康的である。
 このスタンピード祭りは6月の上旬に開催される。日本から到着し、キャンプに入る直前のタイミングであったため、一度見る機会があった。派手なコスチュームを身に着けた美女が乗る趣向を凝らしたパレード・カーが延々と続く路上パレードに始まり、夜の花火ショーまで、イベントが目白押しである。メイン会場であるスタンピードスタディアムは沢山の露店で埋め尽くされていて、多くの観客で身動きもとれない。 我々が見物したその年は、カナダ開拓百周年にあたり、原住民のインディアンと入植者が土地の賃貸契約を結んで百年目になるとかで、英連邦の宗主国からチャールズ皇太子が来臨し、記念のスピーチを行って盛んな拍手を受けていた。

 さてカルガリーの街は西方のロッキー山脈が氷河によって削られた「チル(氷堆積土)」によって緩やかに覆われた起伏のない地形の上に出来上がっている。その中を、これもロッキー山脈に源流をもつボウリバーが蛇行しながらゆっくりと流れている。もともと小さな街である。鉄道の駅から西の方に街が発展した結果、駅は現在街の縁になってしまった。街の中心に、商店街がある。大手にデパートが通りを挟んでブロック毎にあり。歩道の上を透明なシェルターが覆う全天候型の通路になっている。これは雨天の時もさる事ながら、真冬の吹き荒れる雪嵐の時に本領を発揮する。雪が降らなくとも、冬には外が氷点下二十度にもなる寒気に包まれることがある。その時のための重装備の歩道である。

カルガリーのオフィスにて

 この街の端にはカルガリタワーという世界のどこにでもあるような高さ三百メートル足らずの塔である。展望台と展望レストランが頭でっかちに載っている。こんな一見近代的な都市ではあったが、最初に我々が滞在していた当時は、街全体の規模が小さかった。街の中心からどちらの方向へも少し歩くと背の高いビルが切れて、木造二階立ての民家が続く住宅地になってしまう。先輩のYさんが走ったら直ぐ街が切れてしまうと笑っていたが、本当にそうであった。しかしその数年後、短い出張で行ったときには、その後のオリンピックのために、町中をCトレインと呼ばれる近代的な路面電車が新しく走っていた。大きなビルも郊外まで続き、随分と様替わりしていた。

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