化石見学会のお手伝いをして

今日は那須野が原博物館の「親子自然観察教室」シリーズの一つ、「化石の探しに出かけよう」で「大黒岩化石層群」見学会のお手伝いをして来た。
 この町から車で15分ほどの所に、2000万年程前の地層が分布している。二枚貝、帆立貝、牡蠣貝などの貝化石が身近で観察でき、隠れた名所である。また、近くには、石炭(褐炭)の地層も見ることができ、手軽な自然観察の場である。5年程前に、生まれ故郷に戻った後、地元に住む宇都宮大学名誉教授の阿久津純先生がずうっと指導されていたのをお手伝いした。その後先生が「もう年だから」というので引き継いだ形になった。
 近年は、栃木県立博物館の学芸員が、県内から小学校の子供達を頻繁に連れてくるので、化石の現地観察の場所として有名になった。今日現地の沢歩きしたら、県立博物館と那須塩原市教育委員会の仮設した橋が要所に設置されていて、移動がスムーズであった。益々化石の名所になってきたようだ。
 隣接する場所(連続する路頭)では、石炭(褐炭)層が観察できる。今日この場所の転石から、非常に保存の良い植物化石を参加者が見つけた。

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直接の専門ではない小生には植物化石の鑑定はできないが、落ち葉として足元に落ちているドングリの親「ナラ」の葉に近いようだ。上の写真を見ていただきたい。

 今日は、天候にも恵まれ晩秋にもかかわらず暖かい天候で、親子観察会が無事に終了できた。参加者の方々の満足であったと思う。良き一日であった。
 思い起こしてみると、大学から大学院、社会人としてほぼ20年近く「地質屋」であった。現在の仕事内容では誰も想像が難しいと思う。 今後、暇にあかして、このブログで昔の思い出をさかのぼってみよう。題して「振り返ればモトは地質屋」

地質鉱物学に進んだ学生の頃

昭和46年4月に教養課程から専門学部に移行。
現在は総合博物館となっている建物の理学部本館に通うことになった。

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北海道は4月といえ、まだ雪が残っている。建物の前での学部移行時の記念撮影

その後、地質巡検として、見学旅行で北海道内を巡る

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火山として見学した快晴の摩周湖で

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根室車石(枕状溶岩)

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イタリアからの研究生と一緒に

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下川鉱山の坑内にキャップランプをつけて見学

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4年目に進級。卒論研究の頃。講義室で

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或る日、理学部生協食堂の前



初めての地質調査

 先日の新聞記事で、岩手県雫石町上空で全日空機と自衛隊機の空中衝突事後の遺品が35年ぶりに見つかったと報道された。犠牲者162人という大きな事故で、1972年7月30日の2時過ぎのことであった。話はその直後ほぼ3週間のことである。
 大学3年生の夏には、修業論文として初めての地質調査を実践的に行う。コンビとなる同級生と二人で選んだのが、この雫石であった。
 M君と盛岡で待ち合わせして、当時の国鉄田沢湖線に乗った。列車は1両だけのジーゼルカーである。不思議なことに運転席と乗客の座席の間に仕切りがない。あるのは腰の高さのバー1本である。運転席近くに立っていたM君と私が「衝突事故のあったのはこの辺でないか」と話していると、当のジーゼルカーの運転手がハンドルを握りながら我々の方の後ろを振り返り、「そうなんだよ、あの時は…」と話を始めた。「あの方向に、自衛隊機のパイロットがパラシュートで降りてきたんだ。」と矢次ばやに、説明をする。話に熱心なあまり、運転がおろそかになり、ホームの停車位置を明らかに過ぎて停止した。
「いいんですか?」と問うと。「いいんだよ」と答える。そのあまりの大らかさにびっくりした。しかし驚いたことに、傍で同じ話を聞いていた岡山県出身のM君は、話のやりとりを全く理解していない。東北に近い栃木県出身の小生と違い、関西出身のM君には、東北弁のなまりがほぼ完璧に聞き取れなかったそうだ。

 そんなことがあっての後、岩手県・秋田県境の仙岩峠麓の国見温泉・森山荘に落ち着く。ここは秋田駒ケ岳の岩手県側の登山口に面している。浸したタオルが真っ黒になるほどの鉄質温泉で、麓の盛岡周辺のお年寄りの湯治宿として賑っていた。我々二人は一坪ほどの広さの外のバンガローを借りて壁に「H大学付属地質研究所」の立て看板を勝手にかけてほぼ1月間、野宿に近いような生活を送った。

森山荘 本館

 ここは専門的には、第三紀グリーンタフの標式地の一つ。地質を観察し、分析をする格好なフィールドであったが、二人はそんなこといざ知らず、ただやみくもに、林道を、そして急流の沢を歩きまわり、一人前に調査をすすめているような錯覚におちいっていた。
 調査予定期間もそろそろ終わる頃、指導教官であるS先生が現地指導にお出でになった。これまでの調査報告を説明すると、全く的外れの、いい加減ではないが、効率の悪い調査であったことが判明。
 しかし今更時間は取り戻せず、予定通り帰ることになるが、この時の反省がその後の私の地質屋人生を決める。そのS先生からは35年経つ今も地質だけではなく、人生の指導を受けている。

北海道芦別・卒業論文調査のフィールド

 大学の4年目になって、指導教官から芦別炭鉱周辺の地質調査とそこからの地質資料をもとにした室内での分析研究の指導があった。
 幸い、M鉱山芦別炭鉱の世話になり、宿舎は心配ない。ただ調査地域が結構広く効率的な移動手段が必要なため、地元出身の友人の伝で中古のバイクを調達し、その足で調査地域をくまなく回った。

 前にも書いたように、3年目の実習調査では、素人のピント外れのやり方で同じように山々を徘徊したが結果は出なかったとの反省がある。
今回は、念のため、調査の途中でも雨で野外調査ができない日には、宿舎で貰った弁当を手に片道2時間弱の列車で大学に戻り、教官の指導を受けた。
こう書いてもピンとは来ないと思うが、例えば、地形図の極北と磁石での「磁北」は北海道ではその当時9度の違いがある、そのため自分の調査フィールドにずれが出来る。そんなことの指摘を受けながら、夏の間、芦別の山の中を駆け回った。

 夜は、その日の調査のまとめを終えた後、秋の大学院の入学試験の勉強である。
日中、目一杯歩き回り、夜には参考書の活字を追う、今思うと、若さのたまものである。
 夏に2ヶ月近く山歩きをし、その後大学院の試験が終わってから補足の調査で10日近く、野外の地質調査を続けた。

 指導教官のT教授には、1日、我がフィールドにおいでいただき、山肌を歩いて、詳細なご指導を受けた。
あとで、教授の秘書の方から、先生が「彼は若いから元気だね」と言っていたと聞いた。

 秋深く、フィールドを去る直前に、自生している「山ぶどう」の大きな樹をみつけた。次の日たわわに実をつけた山ぶどうの房を思い切りとって、リュックサックに詰め、お世話になった宿舎の調理のおばさんに渡した。今考えるとアリガタ迷惑そのものであったろう(苦笑)。
 

卒業論文発表会

翌年札幌で開催された地質学会の予稿


 

北海道を北から南まで-大学院時代-

大学院に進学して調査範囲を北海道の中軸部全域に広げることになった。
 恐竜が繁栄していたことで知られ、地層の中からアンモナイトの化石が多産する白亜紀は今から約1億3000年万前から6500万年前の地質時代である。北海道では南は日高の浦河から夕張、空知、北は稚内まで帯状に白亜系が分布する。下の地図をご覧いただきたい。日本のアルプスの一つ日高山脈や北海道の石狩炭田の生成と密接な関係がある。
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 修士課程の2年間、札幌から近くの地域は、社会人の先輩から安く払い下げて貰ったポンコツ自動車に乗って地質調査に通った。また石油開発会社の調査には、アルバイト助手として参加し、同時に自分の調査・資料採取をさせて貰った。4年生で卒論調査を行っていたO君の天塩佐久地区のフィールドでは一緒に沢歩きをした。

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(中央O君。後列左からSK社Kさん・Aさん、恩師のS先生)
 私の足元を見ていただきたい。地下足袋に脚絆(きゃはん)である。調査をはじめて最初の頃は、キャラバンシューズなどをはいていたが、調査なれしている先生、先輩にならって、いつの間にか、地下足袋姿が様になってしまった。
 O君いや今Oさんは、SK社の執行役員リビヤ・トリポリ事務所長として石油開発のために現地赴任をして大役に従事している。彼が米国ヒューストンに駐在していた時に別件で出張しOさんからご馳走をしていただいたこともある。
 さて大学院の論文の調査結果、試料分析によると、北海道の白亜紀の地層は地下への埋没深度に地域性がある。興味ある結果が出たので、指導教官のI先生が他のデータと組み合わせて共著の形で、国際学会の論文にしたためてくれた。

研究生の生活

 大学院に移行した春、我が研究テーマの第一人者である大学のI先生のもとで勉強する機会ができた。叔母の家に厄介になり、3ヶ月ほど、研究室に通った。主たる勉強は、こう記してもピンと来ないと思うが、鉱物反射顕微鏡で先生が作った岩石薄片とその記載ノートを照らし合わせての実習である。時折、先生が来て「何か分からない所はないか」と聞いてくれる。それ以外は、ただひたすら顕微鏡を覗く毎日である。
 単純な作業であるから、正直退屈である。昼食後、午後の「眠気」に備えて、しばしば三四郎池ほとりの芝生で昼寝をしたものである。

三四郎池

  正確にいうと、身分は研究生でなく、俗的に書くと「居候」である。研究生としての学費も払っていない。しかし、懇切なご指導を受け、学部生達の巡検(見学)に参加させて貰うなど、知識を深める貴重な機会であった。

 修士課程最後の年は、夏のフィールド調査が終わった後、詳細なデータ分析の為、再度3ヶ月ほどお世話になった。アポロ11号が月から持ち帰った岩石を研究した久野久先生の小さな遺影が載せられた分光分析装置を使わせて貰ったり、その頃は電算機と呼ばれていたコンピュータにデータをパンチカードに入力し結晶構造解析を実践させて貰った。その時の先達は、「メタンハイドレード」で有名なM先生(T大名誉教授)であり、大変お世話になった。  

お世話になった「夕張」のこと

最近、自治体の財政破綻で話題を集めている北海道の夕張。今から30年前、大学院の調査研究生活の時代には大変お世話になった。その頃、夕張は北炭、大夕張は三菱石炭の炭鉱町であった。北炭の地質調査所には、クラスメートのM君が就職していて、鹿の谷合宿(寮)に宿泊させて貰ったこともある。周辺の沢歩きをして、地質調査・試料採取をしたものである。晩秋の朝、谷あいの集落に漂う、石炭ストーブからの独特の芳香が懐かしい。夏には調査の帰途、農家のビニールハウスから直接、夕張メロンを買ったりもした。
 夕張周辺にはその頃私の研究テーマであった白亜紀層が広く分布する。人工湖シューパロ湖の突堤近くは函淵層群の標式地である。良質な石炭はこの地層の上の石狩層群に挟在し広く空知地方に分布する。

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      (夕張調査時代の 地質調査野帖)

  その後、今から8年ほど前、地質屋から銀行員に転職して札幌の勤務をした折には、営業の仕事で時々定期的に夕張信用金庫の事務所を訪れた。またプライベートでは休日に今回問題となった、マウントレースイのスキー場・ホテル。石炭歴史博物館、メロン城などに何度か通った。炭住をそのまま残した「幸せの黄色いハンカチ」記念館も興味深く見学した。
 その夕張が今、死活の岐路に立たされているという。日本地質学の父ライマン一行によって発見された石炭が天然の良港室蘭まで鉄道輸送され、輸入された鉄鉱石と一緒に製鉄される。かくして日本経済の発展に多大な貢献をした夕張の石炭がこのような末路を辿ったことは非常に残念である。更に石炭衰退を挽回すべく投資されたプロジェクトが裏目にでて存続が困難という。複雑な思いである。

出身は「北海道・芦別炭鉱」

 暮れの先日、喪中ハガキを遺族の奥様からいただいた。大学の卒論実習の時から、ずうっとお世話になったKさんである。
 いよいよ、本格的な地質調査、卒業論文の調査で講座の恩師から指定されたのは、北海道芦別炭鉱からその高所に分布する白亜系の地質調査とその地層の中に分布するであろう自生鉱物「沸石」の研究である。4年生の夏休み、大学から会社への正式な依頼状を送って、宿泊先と調査の支援をお願いした。そのとき芦別鉱業所の生き字引として、私の「指導」をしてくれたのがKさんであった。「あそこの林道には熊が出るから気をつけたらいい。」とか「あの沢を上の林道から降りるには、このルートを使うと楽だとか。」非常に現実的なアドバイスを頂いた。引き続いて大学院の2年間も、集中的に試料採取で現地調査を実施した時にお世話になり、気がついたらその延長線上で、実習先のM鉱山に就職が決まっていた。
 新入社員として入社して、集合実習を長期間に受けたあと、内示を受けていたカナダ長期出張が変更になり、本人は大変がっかりしたが、今度は社員として芦別に実習で赴任した。その時の、指導責任者がKさんであった。
 炭鉱での地質調査は、地表調査ではなく、坑内調査が大部分。朝一番方といって、5時頃、入坑する。作業衣に着替え、頭にはヘルメットとキャップランプ。腰のベルトには救命器という名の酸素マスクをぶら下げて、先ず立坑の高速エレベーターで地下1000m近くに下がる。そこから、人車という名前の坑内トロッコに乗り換えて、今日の調査現場へ。我々地質屋が向かう現場は坑道掘進の最先端である。その後石炭採掘の時に、トロッコの線路を敷設する場所であるが、その周辺の地質状況、特に断層の有無がその後の効率的採炭の鍵になる。縮尺1/1000の詳細な平面図、時には立面図、坑道スケッチを描きながら綿密な調査をする。調査の精度は恐らく、日本でいや世界中で最も高かったと思う。大学院時代に指導を受けたT大学の堆積岩地質学のI教授が、「炭鉱では dip もstrikeも1°単位で記載するんだな。」とびっくりしていた。(実際はそこまで細かく測っても誤差の範囲で意味がないよ。とあきれていたのだと思うが。)

 その頃、痛切に思ったこと。日本の炭鉱が実質的になくなってしまった現在、時効か差障りがなかろうと判断して敢えて書くが、昭和50年当初でも、日本の炭鉱には「格差」、「差別」が残っていた。今の公務員のようにキャリア、ノンキャリの区別が、「職員」、「鉱員」としてある。住宅はその差により、地域、質も別。最初びっくりしたのは、坑内で着用するキャップランプの縁のプラスチックの色が、職員は透明、鉱員は黒、鉱員でも資格のある保安員は緑、火薬資格の鉱員は赤と一目瞭然であったことである。坑内ですれ違えば、嫌でもお互いの立場はわかる。私のような駆け出しで、まだ作業服も身体になじまないような新人がヒエラルキーの中で最上位に位置する。違和感を感じたことが記憶に残る。

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(芦別実習中 先輩、同僚の方々と大雪山旭岳に登る。後列左端)
 

初めての海外で石炭地質調査

(カナダ石炭地質調査の日記はこちらから)

キャンプの朝は早い。ほとんど夜明けの四時過ぎにはもうヘリの爆音が夢うつつのベッドの中にも聞こえる。我々の起床は六時半頃である。夜半近くまで仕事をするので、夕食前に作業の終わる他のスタッフと違って、どうしても朝寝坊となる。

 手早く顔を洗って、朝食をとり、ランチボックスを詰めて、7時過ぎにはヘリポートへ。ここでヘリコプターのパイロットと、日中の作業地点を打ち合わせてヘリに搭乗。

 ヘリはスピードがあるので、遠くとも15分もすれば今日の調査のスタート地点に到着。その日の地質調査作業が始まる。周囲の露頭の地層を丹念に調べながら、簡易測量をして、自分のいるポイントを地形図の上に落としながら前に進む。一日の進捗距離は、途中の露頭の分布密度にもよるが、丁寧に観察する必要があり、捗っても2~3kmである。特に途中、ブルドーザーで掘込む石炭の人工露頭(トレンチ)があれば、丹念に観察して、石炭層の品質までも確認しなければならないので、その観察だけでも半日仕事となる。

ブルドーザで石炭露頭を掘り込む

調査対象地域は日本の高山のハイキングコースを想像してもらうと良いと思う。高度的に樹林限界を越えているので、周囲は岩肌と砂、岩石ばかり。高い樹木はなく、緑があってもハイ松などの低い灌木と可憐な高山植物の群落だけである。木々は疎らであり、歩き易い。北海道の大雪山系のお花畑のように、所々雪渓が残る風景のもと、丈低く風にそよぐ可愛い高山植物を踏みしめながらの調査となる。穏やかな快晴の天候に恵まれることもあるが、山の上の常で強い風が吹いていることも多い。風の最も強い地域は我々で Windy Areaと命名した。
 真夏の一時期を除けば寒い時が多く、常に重装備である。6月から7月の初め、所々に残る雪渓を踏み締めて歩く頃もさることながら、真夏でも、土を少し掘込むと白い氷が黒土の中に顔を出すことがある。大袈裟に言えば永久凍土である。

 夕方5時過ぎ、予定のピックアップポイントでヘリに拾われキャンプへ戻る。高緯度の北国の夏である。5時とはいえ、太陽はまだまだ驚くほど高い。

 一日歩き回って汚れた顔や手を洗って、夕食の食卓へ。我々を除く他のキャンプのメンバーにとっては、もう今日の仕事はおしまいである。皆すでに寛いでいる。食事を済ませたものは早くも、隣のビリヤードに打ち興じている。

 我々の仕事はこの後もまだ続く。一休みした後は、外の庭に積んであるボーリングのコアサンプルのロギング(地質鑑定)である。夕陽が西に端に傾く十時近くまでこの作業が続く。

夜遅くその日の整理作業

長かった一日の野外作業の整理が終了すると、皆で集まって、総合討論となる。明日の地表調査地域を決め、また必要なデータを確保するためのボーリング地点を決めて、翌日カナダ人スタッフに作業指示する準備をする。

 12時近くになって、今日の作業もようやく終了。銘々にシャワーを浴びて、就寝までの短いひと時を寛ぐ。一室に集まって、ウイスキーのグラスを傾けたり、ベッドに入って遠い日本の家族への手紙をしたためる。

国内最後の本格的炭田調査

昭和53年の夏、北海道S炭鉱の周辺地質調査に従事した。入社して4年目。新入社員の年は同じ北海道のA炭鉱で実習を行い、その後2年間に亘り、カナダのロッキー山脈の麓で地質調査の手伝いをして、また国内の調査に戻ったわけである。
 このS炭鉱の地質調査はその前年から夏場を利用して実施され、その年、最後にボーリング調査を行って、最終的な結論を出す年であった。

 調査の責任者は、国内外で数多く現場を踏んでいる大ベテランしかもカナダの調査で指導を受けたKさん。私はその下で、地質調査の一部を分担する立場にあった。

 日本いや間違いなく世界で最も精度の高い、表現を変えて正確に云えば、詳細な地表の地質調査が「M井鉱山式皮剥ぎ炭田調査法」であったろう。大正時代以降T博士の確立した方法で、草深い日本の地形で、沢沿いの崖を人力で鍬を振るって剥ぎ取って、人工路頭を出し、連続する地質柱状図を描いていく。石炭の路頭についてはできる限りその変化を追う(「追い炭」という)。という形で、地表のデータを可能な限り詳細に収集する。その後計測した地層の走向、傾斜を「2等分線法」という方式で地下深くまで推計し、最終的に石炭層の等深線図、そこから得られる石炭の埋蔵量を計算するというものであった。

S炭鉱中央立抗

 この調査結果により、S炭鉱は将来的に発展の可能性がないとして数年後閉山となった。この後も小規模な露天炭鉱の調査はあったが、恐らくこの調査が国内で最後の本格的な炭田調査であった。
 今振り返って考えると、大きな意味を持つ調査に従事できたという感慨も湧くが、この調査に関連してもう一つのエピソードを記しておきたい。
 最近、注目を集めている日本のコンプライアンス研究の第一人者、桐蔭横浜大法科大学院教授(当時) 郷原信郎氏。このようなブログでは実名を使わない、少なくともイニシャル表示がマナーであるが、敢えて実名でご紹介する。

 郷原さんは会社の地質技師としての2年後輩、地質技師の採用は1年に一人であるので、極めて身近な存在。浦安の同じ借り上げ独身寮で生活し、日本橋の会社まで通う生活を一緒にしていた。地質屋は夏の期間は現場貼り付け、私も先ほど書いたように海外国内の現場で夏の期間を過ごすのが常であった。
 このS炭鉱の調査の後半、秋口に彼が海外の調査に出張したもう一人の後輩の交代で派遣されてきた。それから一月近く、昼間は一緒に簡易測量のテープを引き、夜は同じ部屋で寝泊りした。
 結局、その年の暮れ、会社を辞めて法曹界に転出することになる郷原さん。その調査中、夜には法律関係の本を一生懸命に読んでいた。「地質は曖昧模糊の推測の世界、反対に法律の条文は論理がはっきりしていて誤解が無い。」という彼の主張を尊重して、札幌で、知り合いの弁護士さんと引き合わせたりしたこともあった。
 その後、司法研修所を終了して検事に任官。東京地検勤務の頃は、職場が近いこともあり、何度か食事を共にした。数年前、同じ検事の奥様と近くの温泉に静養に来たときには拙宅に寄っていただいた。
 直接の後輩だから、顔を合わせれば呼び捨てにさせて貰う間柄だが、彼とは誕生日が同じという共通点がある。もっと驚いたことに彼は、O真理教、M本被告と生年月日が全く同じだと頭を掻いていた。
 彼はサックスの演奏だけでなく、歌唱力にも秀でている。