自然は恐ろしい

 下の画像を見て下さい。先日実施された地元の那須野が原博物館主催の自然観察教室「化石を探しに行こう」のひとコマです。
那須塩原市関谷の箒川支流で貝化石採りに夢中な子どもたちの無邪気な姿です。学芸員は「後ろの地層を見てください。約2000万年前、海底に水平に堆積し、貝殻を埋めた地層が、今標高400mのこの地まで隆起し、直立しています。この間に大きな地殻変動があったのです。」と説明するが、誰も驚かない。
 今回の東北大震災を惹き起こした東北地方太平洋沖地震を思い返して下さい。M9.0と1900年以降起きた地震では世界第2位の規模、「日本では1000年に一度」と極めて稀な地震ということです。震度7に及ぶ本震が2分以上、引き続き大きな余震が頻発し、巨大な津波と被害を発生させました。しかし地震そのものによる地殻変動は、数百kmと広い範囲に及ぶものの変位量は約20mのずれと推定されています。この画像の地層のように海底から400mも隆起し、地層が90度も傾いた地殻変動に比較すると今回の大地震は小さな動きです。しかし人間社会に大きな衝撃を与えました。計算してみると、1000年に一度の確率でも、2000万年には2万回起きていた事になります。累積すると、このくらい地層が動いても納得がいくような気がします。人類誕生からたかだか5万年、それに比べるの地質時代とは如何に大きなスパンであり、その中に自然の恐ろしさが織り込まれているのだと実感します。過去の事象を考えると、今後何があっても不思議はないような気がします。現在専門家による多くのシュミレーションで地震の発生確率が計算されていますから、昔に比べると大騒ぎすることはないと思いますが、それでも冷静に「備えあれば憂いなし」を実践していきませんか。

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専攻は燃料地質学

 俄かに時の宰相の口から出た「脱原発」発言。そもそも原発は、制御が完全なら、コストはともかく、環境負荷がほとんどない安定電源と期待されていたはず。しかし今回は環境破壊どころか、地域破壊、何と評してよいか言葉がみつからない。
 日本では、流込式の水力発電所にはじまり、経済成長のための産業を育成するのに必要な電力を、石炭に加え、石油、天然ガスといわゆる「化石燃料」に頼ってきた。その後、燃料コスト、環境問題から原子力発電が柱の一つとして普及していくのだが…..

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(電力需給のバランス、コストが安い 流込式水力発電、原子力発電をベースロードとして使い、昼間の需要増に合わせて、石油、天然ガス(LNG),石炭などの火力発電で調整し、それでも不足する時には揚水式水力などで補うー電気事業連合会のHPから)

我が人生も振り返れば、発電とは無縁でなかった。。。先ずは 上のグラフでもっとも大きな部分を占める「火力発電」。その燃料となる。石炭、石油、天然ガスを探す勉強をしたのだ。
 第一次オイルショック当時、私は大学の「燃料地質学講座」に所属していた。ここは「化石燃料」を専門とする研究室で、恩師は植物化石、花粉による層序を専門としていた。昭和50年(1975年)、エネルギー燃料価格の高騰を受けて、石油から石炭への見直しが始まった直後、私は大学院を出て、石炭鉱山会社に就職した。その後14年あまり、前半は石炭、後半は石油、天然ガスを探して、世界各地で働いた。石炭は製鉄用コークスの原料として使われる他、Co2排出の技術革新が進み、また資源量としても先進国に安定的に賦存しているので、当時「石油代替燃料」という位置づけで見直しの機運にあった。昭和55年の年、半年間 資源エネルギー庁の第2期「海外石炭開発技術者養成事業」に派遣され、富士宮市にあった貿易大学校で座学、その後、3週間ほどカナダ、米国の産炭地で研修を受けた。当時の仲間は、電力会社、商社、石油精製会社、そして鉱山会社からの若い社員であった。
 タイ国沖合で天然ガスを生産している会社と共同事業をしている会社に出向した当時、まだ現在ほど経済発展を進んでいなかったタイでは、発電用天然ガスの需要は、競合する水力発電所の発電量の影響を受ける。同僚の地質技師が、タイ水力発電所後背地の降雨量の定点観測を行っていたことも今にあっては思い出深い。
 平成元年鉱山会社から銀行に転職した最初の仕事は、米国西部の炭鉱から日本に低コストの発電用燃料石炭を輸出するための積出港湾の採算性調査(概査)であった。3ヶ月ほど日米を行き来し、現地内陸の炭鉱、鉄道会社、沿岸の港湾会社と意見交換して、レポートを作った想い出がある。
 今回、夏場の電力需給逼迫乗り切りの隠し玉として揚水発電所の存在が取り上げられているが、10年ほど前 大学の先輩の地質コンサルタントの事務所にお世話になっていた時、長野県と群馬県にまたがる世界最大となる揚水発電所の土木工事のコンサルタントとして数ヶ月山間地の工事現場に通ったこともあった。上の地図では最上部の、青色部分にあたる。
 このようなことを考えると、生活、産業維持のための電力確保は重要な問題であり、直ぐには間に合わない、太陽光、風力などの自然再生エネルギーまでの、電力需給構成は難しい問題であると思う。

かつて地質調査した土地での震災ボランティア

 宮城県南三陸町へ震災ボランティアとして行って来ました。ここは住民約一万八千人の約半数が一時行方不明となり、多くの注目を受けた地域でした。結果的に死者、行方不明合わせて1200名余り、多数の犠牲者に合掌。
実はこの地は社会人となったばかりの頃、窯業原料の地質調査で1週間足らず出張した所なのです。数えて見ればもう30年以上前になります。調査研究をされていた大学の先生について、会社の上司、私、後輩のメンバーで行きました。
テレビのニュースで大きく報道されるたびに、当時の素朴な町はどうなったのだろうかと個人的に心配し、ボランティアとして行って来ました。 
 今回、南三陸町のボランティア受付センターで受付後、指示を受けたのが、歌津中学校にある避難所住民に対する支援物資の配給所運営の手伝い。そこはなんと、かつて調査の折、宿泊した民宿の裏山。今も地域の資料館として残る木造の校舎におぼろげな記憶がありました。悲しいことに三陸線歌津駅前の集落は瓦礫が残るだけで何もありません。当時の記憶では、浜から上がったばかりの新鮮なホヤをおなか一杯食べたこと。その当時、新聞配達はなく、小学生達が下校した後、駅前の商店に寄って、自分のうちの朝刊を持ち帰る。つまり朝刊が各家庭に届くのが午後というような漁村でした。
 震災前は、ホヤだけでなく牡蠣、ホタテ、ワカメなどの養殖で賑やかだったのに、と一緒に働いた町役場職員の声が身に詰まります。

a74ff1f1911ffeaa55bd2f578f1260bf高台にある歌津中学校体育館 現在2階が避難所、1階が支援物資の配給所。手前の仮設住宅には入居が始まっている。

追記(2017年3月11日、震災6年目の日に)
 ボランティア時、配給所窓口に一時たまたま一人でいた、午後、窓口に物資を求めて来る住民の姿もほとんど無く、いわば手持ちぶさただったとき。
窓口に、消防署員の作業服の制服の40代と思われる男性が、ニコニコして近づいて来た。
開口一番、「支援物資も揃っているし、窓口での受け取りも落ち着いたようですね。」という。
 彼曰く、「実は、津波直後、家族で、この中学校に避難していたのですよ。確かに、他地域と音信が途絶え、ここの山の手にある住宅からお米を集め、きれいな沢の水を使って、釜と薪でご飯を炊いて炊き出しをして、皆に配りました。2日後だったと思いますが、上空高くヘリコプターが旋回しているので、慌てて、近くにあった大きな布を外に持ち出し、何人かで大きく広げて振りました。たまたま、その布の色は赤系統で、国際的なルールで「赤色」は緊急のSOSの信号だったようで、ヘリコプターはそれを確認した後、直ぐに校庭に着陸しました。米国のヘリコプターでした。乗員が確認すると、食糧どころか、何もありません。直ぐに連絡が取られ、支援物資が、米国のヘリコプターで届きました。私が震災後初めて口に入れた水は”米国西部のミネラルウォーター”でした。”アメリカさん”のお陰です。」とにこやかに話してくれました。これ以降、行方不明だった1万人近くの人々の生存が確認され、日本人の多くが安堵の気持ちを抱いたことになったそうだ。

南南東に進路をとれ!

先日過ぎてしまった節分。当家でも人並みに「恵方巻」を食した次第。
さて、今年の方角はと家族と話したら、今年は「南南東」とのこと。
「どっちの方向」と磁石をさがしたが、近くにない。思いついて、納戸にしまってあった小生の昔の「商売道具」クリノメーターを取り出してきた。
昔々30年も前になるだろうか、地質調査の現役の時分、身から離せなかった単純な測定器。地層の傾斜と走向(地層の方向)を測る小さな機器。
磁石は向けた方角がそのまま角度と読めるように通常の磁石と違って、西と東が反対になっている。

c957e9a3d69b910ee5bc010038454d97       食卓の上の恵方巻。左がクリノメーター。

20fe4c5249acbc3102739e8d2fe10557   西(W)と東(E)が反対であることにご留意。

 

雨(音)が好き

 今日は、上空に冷気が入ったとか、全国的に天候が不安定。夕方、車の外は雷にヒョウ、出張を途中ギブアップしてしまった。先ほどまで大雨警報が発令されていた。解除後の今も、結構な雨足の音が聞こえる。
 私は雨の音が大好きである。かつての旅行記にも書いたが、若い頃、カナダのロッキー山脈の麓で石炭資源調査に従事した

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 (最初の年のカナディアンロッキー。20代前半)

 高緯度、高標高の土地は雪解けの期間は短い。いきおい、その短い機会を生かすべく、雨の日以外は、朝早くから夕方日の暮れるまで(緯度が高いから、夏は「白夜」はおおげさだが夜が短い)、野外で地質調査である。日本人のリーダーは昔かたぎの人であったから、疲れるまで一月近くは休みを取らない。そんな時、雨で地質調査に行けない日は、ひと時の休息であった。もちろん、雨だからといって、完全な休みではない。地質調査キャンプで、「内業」という、整理作業を通常どおりの時間帯行う。それでも、普段の日は山歩きして疲れているにもかかわらず、就寝は12時を過ぎるのに、雨の日は身体を動かさないでも12時前にベットに入ることが多い。雨の日は息抜きの日であった。
 地質調査のキャンプの建物は、金属でできた四角いトレーラーハウスである。トタン屋根と同じように雨の音が強く聞こえる。朝方、目覚めた時に雨音が聞こえると、「今日はフィールドに行かなくても良い。」と安堵したものである。そんな感覚が30年後の今も、潜在意識として続いている。勿論、私も人並みにすっきり晴れた日にはすがすがしさを感じる。でも、休日、行動は制限されるが、雨音を聞きながら、屋根のあるベランダで過ごすことも何よりの悦楽のひとときである。

日本最古の旧石器

本日の夕刊各紙に大きく取り上げられている。近くの高原山の黒曜石(obsidian)が日本最古の加工石器で約3万5千年前まで遡られるという。
830abbc1b3413939747023e92e638498 3年前の大黒岩の化石見学会の時、お昼の休憩をとっていたら、参加者の男の子から「これ石炭ですか。」と真っ黒な岩石の破片を手に質問を受けた。2cm角ほどの小さな破片であったが、重さ(比重)、硬さからいっても、今日見学した褐炭の類ではない。貝殻状断口(切り口に貝殻状の特殊な形態があること)、ガラス質の緻密な形状からして黒曜石かなと思った。しかし中に白ごま状のの班晶が沢山浮いているので、これまで標本や図鑑で見た典型的な黒曜石ではないなと判断した。その子にはとりあえず、「後で調べてみるよ。」と答えて、帰宅後直ちに、大学時代の同級生の火山学者に照会のメールを送った。彼は大学の卒業論文で日本の黒曜石の一大産地「長野県和田峠」を調査フィールドにしている。現在は南九州の大学で教鞭をとっている専門家である。答えは「その辺から産出することはあまり聞いたことがないな。」であった。
 その後、1年ほど前、地元矢板市の教育委員会が専門家による黒曜石矢じりの考古学的遺跡調査を実施したことが地元の新聞にも報道された。なるほど、先の子供が河原で拾った岩石は高原山起源だったのだと納得した。地元のことなら何でも知っている知り合いの方に尋ねたら「あそこの黒曜石は質が悪くて、本来は石器にならないのですよ。」もし見たければ路頭を案内しますと言われていた。春先に案内して貰おうと思っていたやさき、この新聞報道。遺跡盗掘防止で現地見学は難しいのかなとがっかりしている。因みに高原山の現地は自宅のベランダから直接ながめることができるし、自動車距離的に30kmあまり、片道1時間はかからないであろう。

サンタマリアの雨

フィリピンのルソン島の北部のサンタマリアという地に地質調査のため出張した。
目的は、その地域に賦存する「褐炭」(注:低品質の”石炭”。しかし燃料としては利用が可能)の調査を系列の商社から依頼され、鉱山技師の上司に連れられて現地に赴いた。
マニラにある商社の支店を基点に、商社担当者の案内で現地へ。
車で移動するので、辺鄙な場所とは思わなかった。そもそも平坦な草原、農地がずうっと続いてており、空も開けているので、明るい。しかし具に観察していると、道路は未舗装。市街地から、農村に行くと、木と竹と葦で作られた住居には電気が来ていない。それでも屋根の上にはテレビのアンテナがある。所謂「八木アンテナ」の形である。良く観察すると、木の枝を組み合わせて作ったものである。住民のユーモアに笑ってしまった。

現地の小屋の中で

 結構高い樹の枝の上をニワトリが歩いている。同じ放し飼いでも、この地のニワトリは3次元的に上にも飛ぶようだ。
奥の部落に行ったら、老齢の男性が近づいてきて、片言の日本語で話しかけてくる。聞き慣れると、こちらとも言葉のやり取りができる。その背後に集まってきた住民を振り返って、「なっ!オレの日本語、通じるだろう」というように、自慢げに話す。
 かつて、太平洋戦争当時、旧日本軍がこの地で駐在していたとのこと。このおじいさんは、当時「ボーイ」と呼ばれて、日本軍の下働きをしていたらしい。「50年ぶりに、日本人が来た。」と嬉しそうに目を細める。それから、住民一同との記念写真(裸足であることに注目)。
記念写真

今回、お目当ての「褐炭は」、ジャングルまでは行かないが、茂みの中を蛇行する沢で、見ることができる。案内する現地人の人夫が、青竜刀のような刃物で、地層を切って見せてくれるが、調査した結果、採算が取れる程の十分な埋蔵量が確認できなかったので、日本に戻り、その報告をした。

ジャングルの中での地質調査

ジャングルの中での地質調査

現地でアテンドしてくれた、商社のマニラ支店のマネージャーのご自宅に帰国直前食事に招待された。高級住宅地にあり、エリアは高い塀に囲まれ、出入り口は開閉式のゲートで、24時間、ガードマンが警戒している。「治安が悪い為、こういう場所にしか、家族帯同では住めないのですよ。」と説明してくれた。その後しばらくして、日本の週刊誌に、フィリピンの高額所得者の番付が載っていた。フィリッピンの有名な「サン・ミゲール」ビールのオーナーの下には、この(商社の課長職)の方の実名が、他の日本商社の氏名と共に掲載されていた。

 

国内最後の本格的炭田調査

昭和53年の夏、北海道S炭鉱の周辺地質調査に従事した。入社して4年目。新入社員の年は同じ北海道のA炭鉱で実習を行い、その後2年間に亘り、カナダのロッキー山脈の麓で地質調査の手伝いをして、また国内の調査に戻ったわけである。
 このS炭鉱の地質調査はその前年から夏場を利用して実施され、その年、最後にボーリング調査を行って、最終的な結論を出す年であった。

 調査の責任者は、国内外で数多く現場を踏んでいる大ベテランしかもカナダの調査で指導を受けたKさん。私はその下で、地質調査の一部を分担する立場にあった。

 日本いや間違いなく世界で最も精度の高い、表現を変えて正確に云えば、詳細な地表の地質調査が「M井鉱山式皮剥ぎ炭田調査法」であったろう。大正時代以降T博士の確立した方法で、草深い日本の地形で、沢沿いの崖を人力で鍬を振るって剥ぎ取って、人工路頭を出し、連続する地質柱状図を描いていく。石炭の路頭についてはできる限りその変化を追う(「追い炭」という)。という形で、地表のデータを可能な限り詳細に収集する。その後計測した地層の走向、傾斜を「2等分線法」という方式で地下深くまで推計し、最終的に石炭層の等深線図、そこから得られる石炭の埋蔵量を計算するというものであった。

S炭鉱中央立抗

 この調査結果により、S炭鉱は将来的に発展の可能性がないとして数年後閉山となった。この後も小規模な露天炭鉱の調査はあったが、恐らくこの調査が国内で最後の炭田調査であった。
 今振り返って考えると、大きな意味を持つ調査に従事できたという感慨も湧くが、この調査に関連してもう一つのエピソードを記しておきたい。
 最近、注目を集めている日本のコンプライアンス研究の第一人者、桐蔭横浜大法科大学院教授(当時) 郷原信郎氏。このようなブログでは実名を使わない、少なくともイニシャル表示がマナーであるが、敢えて実名でご紹介する。

 郷原さんは会社の地質技師としての2年後輩、地質技師の採用は1年に一人であるので、極めて身近な存在。浦安の同じ借り上げ独身寮で生活し、日本橋の会社まで通う生活を一緒にしていた。地質屋は夏の期間は現場貼り付け、私も先ほど書いたように海外国内の現場で夏の期間を過ごすのが常であった。
 このS炭鉱の調査の後半、秋口に彼が海外の調査に出張したもう一人の後輩の交代で派遣されてきた。それから一月近く、昼間は一緒に簡易測量のテープを引き、夜は同じ部屋で寝泊りした。
 結局、その年の暮れ、会社を辞めて法曹界に転出することになる郷原さん。その調査中、夜には法律関係の本を一生懸命に読んでいた。「地質は曖昧模糊の推測の世界、反対に法律の条文は論理がはっきりしていて誤解が無い。」という彼の主張を尊重して、札幌で、知り合いの弁護士さんと引き合わせたりしたこともあった。
 その後、司法研修所を終了して検事に任官。東京地検勤務の頃は、職場が近いこともあり、何度か食事を共にした。数年前、同じ検事の奥様と近くの温泉に静養に来たときには拙宅に寄っていただいた。
 直接の後輩だから、顔を合わせれば呼び捨てにさせて貰う間柄だが、彼とは誕生日が同じという共通点がある。もっと驚いたことに彼は、O真理教、M本被告と生年月日が全く同じだと頭を掻いていた。
 彼はサックスの演奏だけでなく、歌唱力にも秀でている。

出身は「北海道・芦別炭鉱」

 暮れの先日、喪中ハガキを遺族の奥様からいただいた。大学の卒論実習の時から、ずうっとお世話になったKさんである。
 いよいよ、本格的な地質調査、卒業論文の調査で講座の恩師から指定されたのは、北海道芦別炭鉱からその高所に分布する白亜系の地質調査とその地層の中に分布するであろう自生鉱物「沸石」の研究である。4年生の夏休み、大学から会社への正式な依頼状を送って、宿泊先と調査の支援をお願いした。そのとき芦別鉱業所の生き字引として、私の「指導」をしてくれたのがKさんであった。「あそこの林道には熊が出るから気をつけたらいい。」とか「あの沢を上の林道から降りるには、このルートを使うと楽だとか。」非常に現実的なアドバイスを頂いた。引き続いて大学院の2年間も、集中的に試料採取で現地調査を実施した時にお世話になり、気がついたらその延長線上で、実習先のM鉱山に就職が決まっていた。
 新入社員として入社して、集合実習を長期間に受けたあと、内示を受けていたカナダ長期出張が変更になり、本人は大変がっかりしたが、今度は社員として芦別に実習で赴任した。その時の、指導責任者がKさんであった。
 炭鉱での地質調査は、地表調査ではなく、坑内調査が大部分。朝一番方といって、5時頃、入坑する。作業衣に着替え、頭にはヘルメットとキャップランプ。腰のベルトには救命器という名の酸素マスクをぶら下げて、先ず立坑の高速エレベーターで地下1000m近くに下がる。そこから、人車という名前の坑内トロッコに乗り換えて、今日の調査現場へ。我々地質屋が向かう現場は坑道掘進の最先端である。その後石炭採掘の時に、トロッコの線路を敷設する場所であるが、その周辺の地質状況、特に断層の有無がその後の効率的採炭の鍵になる。縮尺1/1000の詳細な平面図、時には立面図、坑道スケッチを描きながら綿密な調査をする。調査の精度は恐らく、日本でいや世界中で最も高かったと思う。大学院時代に指導を受けたT大学の堆積岩地質学のI教授が、「炭鉱では dip もstrikeも1°単位で記載するんだな。」とびっくりしていた。(実際はそこまで細かく測っても誤差の範囲で意味がないよ。とあきれていたのだと思うが。)
 その頃、痛切に思ったこと。日本の炭鉱が実質的になくなってしまった現在、時効か差障りがなかろうと判断して敢えて書くが、昭和50年当初でも、日本の炭鉱には「格差」、「差別」が残っていた。今の公務員のようにキャリア、ノンキャリの区別が、「職員」、「鉱員」としてある。住宅はその差により、地域、質も別。最初びっくりしたのは、坑内で着用するキャップランプの縁のプラスチックの色が、職員は透明、鉱員は黒、鉱員でも資格のある保安員は緑、火薬資格の鉱員は赤と一目瞭然であったことである。坑内ですれ違えば、嫌でもお互いの立場はわかる。私のような駆け出しで、まだ作業服も身体になじまないような新人がヒエラルキーの中で最上位に位置する。違和感を感じたことが記憶に残る。

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(芦別実習中 先輩、同僚の方々と大雪山旭岳に登る。後列左端)
 先日たまたま、google の検索エンジンで自分の名前を入力したら大学の卒論のテーマが日本地質学会の予稿集としてピックアップされた。半年前には出てこなかった。こんなところにも google の努力と進化が見られると思いながら少しこそばかゆかった。

お世話になった「夕張」のこと

最近、自治体の財政破綻で話題を集めている北海道の夕張。今から30年前、大学院の調査研究生活の時代には大変お世話になった。その頃、夕張は北炭、大夕張は三菱石炭の炭鉱町であった。北炭の地質調査所には、クラスメートのM君が就職していて、鹿の谷合宿(寮)に宿泊させて貰ったこともある。周辺の沢歩きをして、地質調査・試料採取をしたものである。晩秋の朝、谷あいの集落に漂う、石炭ストーブからの独特の芳香が懐かしい。夏には調査の帰途、農家のビニールハウスから直接、夕張メロンを買ったりもした。
 夕張周辺にはその頃私の研究テーマであった白亜紀層が広く分布する。人工湖シューパロ湖の突堤近くは函淵層群の標式地である。良質な石炭はこの地層の上の石狩層群に挟在し広く空知地方に分布する。

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      (夕張調査時代の 地質調査野帖)

  その後、今から8年ほど前、転職して札幌の勤務をした折には、営業の仕事で時々定期的に夕張信用金庫の事務所を訪れた。またプライベートでは休日に今回問題となった、マウントレースイのスキー場・ホテル。石炭歴史博物館、メロン城などに何度か通った。炭住をそのまま残した「幸せの黄色いハンカチ」記念館も興味深く見学した。
 その夕張が今、死活の岐路に立たされているという。日本地質学の父ライマン一行によって発見された石炭が天然の良港室蘭まで鉄道輸送され、輸入された鉄鉱石と一緒に製鉄される。かくして日本経済の発展に多大な貢献をした夕張の石炭がこのような末路を辿ったことは非常に残念である。更に石炭衰退を挽回すべく投資されたプロジェクトが裏目にでて存続が困難という。複雑な思いである。