これまでの人生

誕生から学生時代まで
 昭和26年に栃木県北で生まれる。
生まれたときは  健康優良児であったとか。本人に記憶は残っていない。

地元の保育所、小学校、中学校から高校へ。学校時代得意なスポーツはと尋ねられるが、恥ずかしながら身体を動かすことは不調法。今も、運動には自信がない。
 高校は、田舎の進学校というが、要は予備校。今も同級生との交歓はあるが、校舎、行事についての良い思い出はない。

  将来は、科学者、特に天文学者になりたいという夢が小さな頃からあった。小学校の高学年頃から、手作りの望遠鏡で星空を眺めていたものである。しかし天文学とは、星空を眺めるよりも物理・数学の複雑な計算をする学問であることがわかり、挫折。
 大学は憧れもあり、北海道の大学へ進む。それでも、将来科学者になるという夢は捨てられず、地質学の道を選び、大学院へ進学。しかし、学者の道は前途多難まだその頃は珍しかった海外勤務を餌に釣られて、鉱山会社の地質技師へ。

社会人生活の第一歩
 時代は第1次オイルショックの直後であった。原油価格が高騰し、代替エネルギーである石炭の需要がたかまり、それまでの斜陽産業である石炭会社が一息をつき、将来の希望をもった時期であった。先ずは入社時約束の海外派遣の前に。北海道の炭鉱で半年間、ヘルメットにキャップランプを付けた作業衣姿で、地下1000m以上の採炭現場に下りて、地質調査の基礎を勉強する生活を送った。

 この後、鉱山会社勤務の14年間は、海外を舞台に、リスクの高い資源開発の可能性を判断するための基本情報を収集する、いわば「山師(やまし)」の生活を送る。英会話能力は恥ずかしながらいつまでもたどたどしかった。それでも初めに、夏のカナダに長期出張、雄大なロッキー山脈の麓で、毎朝夕ヘリコプターに乗って、真夏でも残雪の残る岩肌で石炭の地層を追いかけた。その後、タイはシャム湾の洋上プラットフォームで天然ガス田の開発作業に従事したり、エジプトの紅海のほとり、スエズ砂漠で、石油掘削現場の現場監督。いろいろな経験をさせて貰った。この頃の思い出は 旅日記集 につづってあります。興味のある方はご一読されたい。

バブルの時代は金融機関へ
 今から考えると平成元年はバブルのピークであった。この年、私は鉱山会社から石油開発会社に出向中であった。技術部に席を置き、親会社である商社と共同で、アメリカのヒューストンにある大手石油会社で、油田の買収検討のための調査にあたっていた。

 その頃、銀行から鉱山会社の上司経由で入社の誘いを受けた。「銀行はいま忙しい。猫の手も借りたい。炭鉱会社は人手が余っているだろう。」と。逡巡もあった。銀行人事部の面接は応募者が38才と、年齢が高いこともあり、慎重だったが、結局採用。

   平成元年10月1日に前の会社を円満退社して、転職。3週間後には、米国に出張して最初の仕事。一旦は帰国したが、すぐに米国に戻り、ある新規事業の企業化可能性調査に従事。仕事が一段落して、日本に戻る航空機に乗ったのが12月30日。東証株価が38,915円のピークをつけた日であったことは今も強い記憶に残る。

 この1989年(平成元年)は昭和天皇のご薨去に始まり、世界では歴史的な事件、出来事が相次いだ。転職直後、先ず ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦は終結した。出張先のロスアンゼルスの新聞で、ニューヨークの富の象徴ロックフェラーセンターを日本企業が買収した記事を読んだ。

  入った銀行で最初に所属したプロジェクトファイナンス部といえば、銀行内でも憧れの的であった。国内の他の銀行からも一目置かれた存在であった。テレビドラマ「半沢直樹」の中でも、銀行の若手行員の憧れとして「プロジェクトファイナンス」が描かれている。中途入行で、技術屋として入った私などは場違いの存在であったが、生え抜き、またキャリアアップして他社から入行した同僚達はほとんど全員が、海外留学経験者。米国一流のMBA、ロースクール、中国の語学学校とそうそうたる面々であった。この頃の切磋琢磨の雰囲気は、今も組織のあり方の理想形の一つと思っている。

 この時期ふだんなかなか足を運べない土地に出張させて貰った。ニューギニア高地人の住む、ニューギニア奥地の油田開発現場。観光目的ならシルクロードと呼ばれる中国内陸のウイグル州にも2週間ほど出張した。中国のタリム盆地の石油開発現場の視察団は、同行する事務局の撮影したビデオが「初めてカメラが入った」としてNHKの経済ニュースで紹介された。先日、当地から上海まで数千キロに及ぶガスパイプラインの国際入札の新聞記事を読んだ。同行した多くの大手商社の名前が、入札リストに並んでいた。世の中は着々と進歩している。

 プロジェクトファイナンス部で海外案件を中心に3年余り。次の勤務は公社公団担当の営業。アクアラインとして実現した東京湾横断道路株式会社。国の道路施工命令に沿って、将来、採算性が疑問視される地方の高速道路を造らざるを得ない 道路公団。 ニュータウンをあちこちに造ってみたものの、入居者が少なく存在意義を問われた 住宅都市整備公団(当時)。汐留、品川の旧操車場跡地を再開発し、国鉄民営化の債務整理をしていた国鉄清算事業団など。いずれも国家的なビックプロジェクトだったが、意義、採算性に大きな問題を抱えていたのは周知の事実。

 この頃、松戸にあった社宅を出て、故郷の那須の実家の敷地に自宅を建築。片道170kmの超長距離を新幹線通勤。8ヶ月でほぼ地球を1周する計算。朝夕、リクライニングシートに座わることができて、体は楽であったが、片道2時間近くの通勤はやはり”痛勤”。

 次は、学生時代を過ごした 札幌の支店勤務。最初は 地元金融機関担当の営業。その後昇格して、受信担当、総務担当の管理職。支店の店舗、社宅をリフォームするのは、DIY を趣味していた私にとって、とてもやりがいがあった。地元の都銀が経営破綻し、第2地銀に吸収される衝撃的な過程を、担当責任者として近くでつぶさに観察した。と思うまもなく、勤務先の銀行が槍玉にあがって、国有化されるまで、店頭責任者として2度の’取りつけ騒ぎ’を経験した。この後、身近な方が何人も自らの命を絶った。無念の気持ちで一杯である。

故郷へ帰る
  国有化も間近になった頃、新聞の求人広告に、自宅近くの大学が事務職員を募集しているのを見て応募。国有化された翌日面接して銀行を退職。直ちに大学関連の医療施設の実習で九州へ。戻ってから、自宅と同じ町内にある病院、老人保健施設の責任者。しかし、積極的な経営を強引に押し進める理事長とそりが合わず。3ヶ月で退職。

 あとは大学の先輩の経営する土木地質コンサルタント事務所に世話になって、電力会社が建設中の世界最大規模の揚水力発電所の仕事で、長野、群馬の山間の現場に足繁く通う。この間、再度東京の事務所まで新幹線通勤していたが、若くもない体には、長距離、長時間の通勤が負担だったこともあり、地元の町の広報に載った商工団体の職員募集の広告を見て、応募。採用される。
商工団体では、地元の商店・町工場の経営その他もろもろの相談事と 地域振興のためのおまつりイベントの企画などが主な仕事。併せて町の中心地にあったスーパーマーケット跡地の再開発と、道路の整備などのお手伝いをさせて貰った。

 現在は、「いーべ!那須野が原」サイトの管理人。今後も皆様のお役にたてたら良いなと思っています。

 

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